2007年月日
老馬新聞

那覇市モノレール首里駅プラットホームから弁が岳(べんがたけ=ビンヌウタキ)を望む。首里駅から西へ約500メートル。この丘は海抜165.7m、本島中南部では一番高い。


弁が岳の東側の入り口 上りきったところの左側に軍事施設が残っている。



これがその軍事施設と思われる建物である。半分埋もれているが今でも頑丈な構えである。
ここ弁が岳は「愛媛と戦争」展年表によれば米軍攻勢の中1945(昭和20)年4月17日から5月20日まで第22連隊の連隊本部がおかれていたところ.。ここはトーチカの入り口かもしれない。



建物内部もしっかりしている。



外壁にはたくさんの砲弾痕が残っている。米軍は弁が岳北方から押し寄せてきたのだが、この砲弾痕のある壁は南向きである。つまりこれらの砲弾が打ち込まれたとき米軍はすでに弁が岳を包囲していたことになる。第22連隊は5月20日に下命に従ってここと脱出し南部へ後退しているので、あるいは米軍はもぬけの殻の弁が岳に駄目押しの砲撃を加えたのかもしれない。




上の案内番の記述によれば、弁が岳はもともと「ビンヌウタキ」と呼ばれ、飛鳥の三輪山のごとく山全体がご神体であった。


 道端に一番大きい拝殿が設置されている。右へ迂回するとこの門の内側へ入れる。そこから弁が岳頂上へつながる狭いのぼり道をたどることができる。


弁が岳頂上も拝所となっている。そこから首里方面を望む。首里城の地下には沖縄戦を戦った第32軍の司令部壕があった。弁が岳は司令部防衛の最後の拠点である。↓

第22連隊各大隊が展開していた西原方面を望む。4月24日には日米両軍あわせて10万人近傍の死傷者を出した嘉数の戦い(第22連隊も参加していた)が皇軍撤退で終結し、米軍はいよいよ本格的に首里攻略作戦に取り掛かった。米軍はこの写真の正面から怒涛のごとく攻め込んできたのである。
首里駅近くであった快活な老人は、当時小学校2年生だったそうだが、攻め寄せてくる米軍の大軍勢のすごさを今でもありありと思い出せる、とのことだった。↓