2007年月日
海南新聞
明治41年
2月20日~21日
老馬新聞

1908(明治41)年2月20日 

●韓国人の奇習
◎韓人が白服を好むに就きては 開国の祖箕子の為に永代喪に服する所から濫觴つたと云ふ説もあるが 余り的にはならぬ 寧ろ已むを得ずに白服を纏ふとなつたものかと思ふ 外国との交通の開けぬ前には朝鮮には染料は至つて乏しかつたもので 又韓服は布が沢山要るだけに染めるにも手数が要るから無精国民の常として生地のまま着用したものらしい 又韓人は一体素純な人種でパツと派手やかなことを好かぬと関係もある
◎併し小児 殊に小娘は黄、赤、青又は桃色などの色物を用ゐ 老爺の白服に対し一際目立ちて光彩を放ってゐる、若しこれがなかつたならば 葬式の日雇を見る様で韓人の風俗は甚だ無趣味だ 然るに近来女学校の韓国女生徒は色物を廃して素純な黒服など纏ひ 或は韓洋 合いの子服を着る傾きを生じたのは寧ろ惜しい様な気がする
◎韓人の間が抜けて見えるのはその目鼻立ちの何となく取締りなきよりも寧ろ其服と帽とである、服は何反位の布を使ふか当て見たこともないが実用上には日本服にも劣らざる不便な服で 余の風潮に従ひ昨今追々狭く仕立てる傾きを生じた、帽にも種々あるが宮中の連中は素と粘土で造れる直径二三尺の火笠を冠つたさうだ、其来歴を聞くに 昔或時代の皇帝が儀式の際に臣下の者が互に耳語する風あるを憂ひ 其予防としてこの大きな笠を被せたと云ふのである 又或皇帝は臣下の知力の進むを防がん為に馬の毛で織つた紐で鉢巻させたと云ふ伝説もある 他愛もない話だが今日の帽子もやはり馬の尾で造る昔のものに比べると 段々小さくなった 服も十五年前に比すると三分の二狭くなつたさうで之が為め一ヶ年二に二百万円位の布地を節約することが能る
◎履物は本来靴と草履の中間物と云ふ様なものが国風となつて居るが 近頃は洋風の革靴を穿く者が次第に増加し京城の学生間に専ら流行している、地方でも漸次波及する風がある 併し韓服に洋靴は洋服に下駄穿の如く体裁が不恰好である 靴の流行と共に靴屋は繁盛し従来支那人の専業であつた奴が今では日本の靴屋が跋扈して居る

同日1908(明治41)年2月20日
●韓国移住漁業
西条町大字明屋敷横井藤作、神野春吉、藤田儀太郎、矢野伊勢吉の四名は各一戸金五十円の補助を得て韓国に移住し漁業に従事することとなり来る廿一日出発する由。

1908(明治41)年2月21日
●朝鮮国の畜牛
本邦牧畜事業の発展に伴ひ韓国よりの輸入種牛は近年著しく増加の趨勢を示し 昨年一月より八月に至る輸入頭数一万頭以上にも達し 尚増加の一方なるが其仕出地は主に釜山にして 荷主は大分、山口、島根の三県最も多し 今其性状、価格其他業者の参考となるべき要点を挙ぐれば左の如し
▲体格 通例は赤色にして間々黒色簾等あり 性質従順、体質強壮にして歩行も速なり 概して体格大ならず 体長五尺八九寸 体量は当歳にして約四〇貫、二歳約六十貫、三歳約七十貫、四歳約八十貫、五歳以上は約七十貫なり 頭部は適度なるも 角は細短にして少しく湾曲し質の美麗なるは少なし 耳は適度なるも 顔長く額狭く 鼻小にして稍円形を呈して鈍なり 鼻端短く鼻孔小にして 口腔も亦然り 頸短く肩峰稍平坦にして肩部適度なるも 腰平直 肩部後方に少しく傾斜し概して小さく 尾礎高く 尾は適度にして能く下垂し 肋骨稍湾曲し 胸部深大にして 腹部少しく萎縮し 乳房小く 四肢堅固にして 皮四肢厚く弾力少なく 毛はや丶長くして粗剛 且つ蹄質、蹄形共に良好なり
▲一日の行程 約四十貫の重量を負担し六里の行程に耐ゆ 而して数年間使役に供せられたる後多くは食用をして屠殺せらる
▲肉質及重量 肉質佳良にして脂肪に富み概ね和牛に等しく 肉量は六七歳にして四百斤内外なりと云ふ
▲飼料 生草若しくは藁にして 生草は一昼夜一頭分五尺締一把半 藁は五尺締にして四頭に之を分与す
▲価値及運賃 釜山に於ける畜牛一頭の価格は一、二歳焼く十五貫五百文(二十八円二十五銭) 三四歳約十五貫五百文(三十二円六十銭) 五六歳約十六貫文(三十三円六十銭) 釜山より下関港に至る運賃は一頭約二円五十銭乃至三円五十銭とす
▲検疫検査 輸入獣類は山口県豊浦郡彦島村福浦輸入獣類検疫所に於て検疫検査を受け 規定の時日繋留後解放せらる
▲下関の市価 検閲済みの上は多くは下関市に於て競売せられ 其価格は一、二歳四十円内外 三四歳五十円内外 五六歳六七十円内外にして 広島、姫路、神戸、大坂の各市へ移送せらるるといふ