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1999年12月23日(木曜日)今日も寒い
守るべき国家、守るべき学校

 21日、22日と愛媛県教育委員会の教育研究大会があった。忘暮楼は丁度順番(アイウエオ順)が回ってきて出席することになった。

 全体会は県民文化会館。昨年7月末の全私研大会で忘暮楼たちが速報づくりための取材や撮影で走りまわったところだ。全体会講演の講師は江崎玲於奈さんだった。

 忘暮楼は中間ぐらいの位置に陣取っていたのだが、講師が頻繁に使うOHPの文字が見えない。もともと文字が小さすぎるのだ。面白そうな話なのにこれでは理解しにくい。見れば一番前のかぶりつきの席がすいている。講演の途中だったがそこへ移動した。

 じっくり聞いてみると、「日本の未来をつくる」というたいそうな演題のわりに大した議論ではない。

 人間は遺伝子のもつプログラムによって生きている。しかし人間の場合、日本語の取得のような、遺伝外情報によるプログラムの獲得が重要な意義をもっている。

 もっと大切なのが、自分で自分にあったプログラムを書く能力である。自分が自分に有利な分野で競争できるように、自分のなかにある、他人が持たない「例外的なタレント」を見つけ、それを伸ばしていくプログラム、つまり創造力を発揮できるプログラムを自分で書けるようにならなければならない。

 ざっとこんな話であった。実際は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりのナメクジみたいな話だった。準備不十分か、同じテーマで話し過ぎか、どちらかだと思う。

 もちろん、大変なキャリアの持ち主なので、部分部分にはひざを打つようなエピソードもあった。

 そんな話のひとつ。アメリカの政府高官が物理学の基礎的研究を進めている研究所を訪れた。そのとき、ある研究の進捗状況を見学したあとこの高官が、

 「ところで、この研究は何の役に立つのですか?」
と、忘暮楼がしそうな質問をしたという。

 この質問に対して、この研究を指導していた某博士は

 「これはテクニックの研究ではなくサイエンスの研究ですので、いつの日か役にたつことがあるかもしれませんが、今は何の役にも立ちません。しかし、この研究をサポートしていることによって、アメリカが守るに足る国家であることを証明することになると思います。」
と答えたそうである。

 これは社会の基礎部門である学校にも言えることである。その学校が守るに足るものをもっているか、これが問われるのである。私立学校の場合はとくにそうである。それは必ずしも今直接目に見えて役に立っているかどうかとは違う次元である。

 単なる県の高校政策を補完するだけの学校は、一見役に立っているように見えても守るべきものはもっていないことがありうる。

 今、生徒減による経営難から抜け出るために苦闘(やり方に問題がありすぎたが…)している松山市内の某女子学校の場合、それがあると思う。それは、この学校の高邁な理想、教師たちの子どもたちの教育に対する献身性、「文句を言うより働こう」といった愛校心、生徒の可能性を信じる人間認識、そんなところに現れていると思う。この学校の規模やロケーションも捨てがたい。

 いま、この学校の経営者は「背に腹は変えられない」とがむしゃらに特進路線を進めようとしている。痛ましい選択だが経営者としてはありうる一つの選択かもしれない。

 ここの校長はもともとこの学校のさっき述べたような教師集団の一人であった。校長がそれを忘れず、すばらしい仲間への信頼をもとに学校作りを進めていくなら、一味も二味もちがった「特進学校」ができるのではないだろうか。

 p/s ついでにいうが、部下を軽蔑するする上司は成功しないと思う。職場に疑心暗鬼を広めるだけである。ライバル校に足元を救われるだけである。今日は長い話になってしまった。


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