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  1999年11月26日(金曜日) 少し鬱気味
自己と他人

 「お受験」という言葉がマスコミをにぎわしている。

 我が子が目指していた有名幼稚園に入学できなかった母親が、その幼稚園に合格した近所の子どもを殺害する、といいう事件が起こった。

 西村清和さんは近著『電脳遊戯の少年少女たち』(講談社現代新書)のなかで、嫉妬について

ところで欲望が、未来の可能性としての「あるべきわたし」に向かうのではなく、他人が持っているものを「未来のわたし」のものとみなすとき、それはとくに羨望や嫉妬と言われる。
と語り、さらに、ねたみに関するメルロ・ポンティの分析(「目と精神」みすず書房)を紹介している。それによるとメルロポンティは次のように考えたらしい。
 幼児におけるこのこの「他者との同一視」による自己と他者の混乱にもとづく感情的状況のひとつが、ねたみである。
 ねたむひとは、自分の存在が他人の成功によって侵害されたと見、また自分の所有すべきものが他人に奪われたと感じるのであって、
ねたむとは、成人の場合でさえ、こうした「自己と他人の未分化」をあらわす。つまり成人のねたみもまた、幼児の感情へのありかたへの退行と見るべきものである。

 「私の子は私の子、他人の子は他人の子」あるいは「私は私、他人は他人」的な生き方は往々にして非難の対象とされやすいが、例の豆チャンの新人生を見ても、これも大人のひとつの要件として称揚されるべきなのであろう。

 私立高校は今新しい市場開拓のために懸命である。次々と将来構想が打ち出され、それを約束手形にして中学卒業生や小学校卒業生の確保を図ろうというわけだ。

 これはまあ私学の宿命のようなところがありはするのだが、「自校の存在が他校の成功によって侵害されたと見、また自校の所有すべきものが他校に奪われた」という感覚を新構想の出発点にしていたりすると、これは「幼児の感情へのありかたへの退行」ということになるのであろう。

 そう言えば、学校幹部の言動に幼児っぽさがうかがえることがあることはある。


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