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  1999年11月03日(水曜日) 文化の日 晴れ
ギャンブル罪悪論の歴史的背景

 『スポーツとは何か』(玉木正之著 講談社新書 1999・Aug20)を読んだ。

 著者は忘暮楼よりちょうど10歳若い音楽とスポーツの評論家。「あとがき」によると、かって日本のスポーツの余りの堕落に絶望して「スポーツライター廃業宣言」を発表したことのあるそうだ。今回の出版は「復活宣言」とのこと。

 世の中には、同じような考え方をする人がいるもんだなあ、とビックリした。気の合う友人は何人もいるけど、それぞれに感じ方はちがうものだが、この著者の場合、お勉強の量は全く足元にも及ばないけど、興味のもちかた、切り口など忘暮楼とそっくりだ。

 もちろん、いままで考えたことのない問題もあった。そのひとつがギャンブルの問題。忘暮楼は賭博は好まない。パチンコも、夏の帰宅途中あまりの暑さにパチンコ屋に逃げ込んでちょっとやってみたりする程度、何千円、何万円もお金を使う気にはなれない。貧乏性ということもあると思う。

 著者はギャンブル罪悪論の発生について次のように書いている。

 …古代や中世の社会では、賭博行為は支配者の娯楽として「罪悪」の観念は無かった。が、近世になって一般庶民にまで賭博が広がると、支配階級は、生産の停滞や社会の荒廃につながる「罪悪」として禁止し、厳罰に処するようなった。そして近代スポーツも、アマチュアリズムを信奉し、選手も観客も、スポーツに「賭ける」ことは不道徳的な行為として禁じられた。
 日本でも同様な経過で1907年に賭博罪が設定されたのだそうだが、実際は今日も、民間のパチンコから公営の競輪、競馬、競艇、サッカーくじ、とギャンブル天国。松山でも街の中心に競輪場が鎮座している。暴力団の主催する裏ギャンブルは一大産業を形成しているらしいし、昨日も巨人の清原選手がこの手の件で裁判所に出廷した。

 結局

これは、公的機関が賭博による利益を独占し、既得権益を守るために賭博を犯罪と規定して禁止している、といえる状態
だ、として、今日の状況は長い歴史を持つ娯楽であるギャンブルの扱いとしては「正常な状態とはいいがたい状態」、と主張するのである。

 現在進行中の地労委審問でも、ある学校の教頭が、生徒と「漢字テストに合格したらジュース」という約束した教員の行為を「100%賭博行為」と断じて、これに対する戒告処分は全く当然と主張している。この論理の背景にも当然「ギャンブル罪悪論」が前提されているわけだが、ここから感じられる一種の「偽善性」は今日の日本のギャンブル状況と深い関連があるのかもしれない。勉強してみたいテーマがまた一つ増えた。


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