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  1999年10月29日(金曜日) 公園とひろば

 以前、生徒たちと公園とひろばの違いを論じ合ったことがあった。

 そのときこの違いを実にうまく表現した生徒がいた。曰く、

ひろばには規則がない。公園には規則がある。
 子どものころを振り返ると、確かに、我々は規則のないところで遊んでいた。道路にしても、山の中にしても、海にしても、断崖にしても、材木置き場にしても、橋にしても、我々の遊び場には規則はなかった。我々の遊びは監視と制裁の対象ではなかった。

 子どものころ、夏泳ぎに行く途中イリコ干し場があったりすると、イリコのなかの小さいイカの子を見つけてチョイと盗んだりしたものだ。山歩きの途中で開拓集落の畑のスイカを失敬したこともある。

 悪いことに決まっているが、それは遊びの延長で非行とはみなされなかった。叱責の対象ではもちろんあったが、制裁の対象とはならなかった。

 いまは違う。スーパー・マーケットや本屋でのいたずらは「万引き」として扱われ、文句なしの非行だとされる。親は店長に呼び出され土下座して許しを請わなければならないことになる。しかし、子どもには罪の意識はない。それが遊びの延長である点は私のイリコと同じである。

 これを「非行の遊び化」という。

 それではなぜ子どもに「非行の遊び化」が起きるかというと、西村清和さん(『電脳遊戯の少年少女たち』講談社新書)は、そのウラに大人による「遊びの非行化」があるのだ、という。

 管理社会においては、大人や教師や警察官は、子どもの生き方を規格化し、子どもが逸脱しないように監視する。そこでは子どもの遊びの延長でしたかない逸脱も、違法な非行と見られるというのである。これが「遊びの非行化」だ。だから、「非行の遊び化」は、「遊び」を非行視する管理社会が生み出したものなのである。

 「ひろば」が「管理された公園」になることによって、キャッチボールすら「非行」になってしまう。少年や若者はイライラする。

 すべてが監視される道路 は管理社会の象徴である。暴走族は、メイン・ストリートや居住地域など、最も管理された道路での疾走を試みる。暴走続もまた管理社会の落とし子なのであろうか。


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