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  1999年10月27日(水曜日) Fair
「私」と顔

学生時代にウソ覚えをしてしまったことが結構ある。  

「千手観音」は「センテカンノン」。これは明らかに先生がウソ覚えをしていたのであった。

 「サン・シモン」と「フーリエ」は、私にとっては、大学に入っても「サンシモン・フーリエ」という独立人格であった。

『我思ふ 故に 我在り。』というデカルト形而上学の第1原理を初めて教わったのは高校のときだったが、あのときは確か「私は考えているからこそ存在していると言えるのであって、人間は考えることが大切なんだ」と理解していたように思う。

 ところが、あとで知ったことだが、デカルトはあのコトバによって、「私」というものが間違いなく存在する実体であり、それは「思考」を本質とする精神であると論証したのであった。

 さらにデカルトは、世界に実在するものは、この「思考」を本質とする精神と、「延長(空間的なひろがり)」を本質とする物質である、と分析し、『省察』の正式のタイトル

『神の存在、ならびに人間の精神と身体との区別が証明される第一哲学の省察』(第2版)

の通り、人間の精神と身体は別物であることと見たのであった。いわゆる「二元論」である。

 私はどうしてか知らないけどいつのまにか二元論者になっていた。大学の学生寮にいたころ、身体ではない「本当の私」とは何なのだろうということが気になって、布団にもぐって暗闇の中で私を探したこともあった。

 でもこの二元論はどこか無理がある。自分の身体の一部である顔を鏡でみていると、精神と身体はもう少し近いのではないかとおもってしまう。

 先日、酒の席で「現象論てなんだったっかなあ」という話が出た。ちょうどそのときその系統の本を読んでいたのだが、「さてなんだったか…」で終わっていた。あとで復習してみると、現象論の場合、「両義性」というコトバがよくつ使われるように二元論は取らないのだった。

 今日読み終えたその本、『電脳遊戯の少年少女たち』(西村清和著・講談社新書 1999年10月20日発行)の終わりのほうに、「顔」と「私」の関係が現象論の立場に立って次のように書かれていた。

<わたし>とは、…気がついたときにはこの顔を押し付けられ、この身体に縛り付けられて、しかしそのおかげでこの世にあり、外部世界と他人につながれている存在である。

これは、デカルトより確かに真に迫っている。座りがいい。


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