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  1999年10月10日(日曜日) 晴れ
絶景と日常生活

 朝起きたら豆ちゃんが「騎牟礼城址」に登ろうという。豆ちゃんの家から歩いて20分くらいのところにある小高い岡である。

 稲刈りの始まった田んぼ道を通り、カボス団地の間の急な坂道を登って行く。このあたりには温州ミカンは一本もない。竹田市はカボスの名産地である。
 道端には秋の野花が咲き乱れている。ジョウビタキが人懐こいようすで我々を眺めている。

 のんきな話をしながらカボス団地の一番上にたどりついたら、おおおおーーーー、突如、息を呑むような絶景が現れたのである。

 眼下に無数の谷間を抱いた緑の大地が広がっている。遠くにドーンと鎮座する二つのお山は、かたや傾山(かたむきやま)、そして祖母山(そぼさん)だそうだ。傾山は宮崎と大分の県境の山。祖母山は1756メートル、九州の最高峰、大分第1の川、大野川の源流だ。

 祖母山には、「海彦山彦」伝説の山彦のほうの細君、豊玉姫(サメの化身)が祭られているそうだ。この人が神武天皇の祖母なので祖母山と呼ばれるようになったのだとか。これはちょっと眉唾な話である。本当は『そばだつ(=高く聳え立つ)』あたりから来た命名ではないかと拝察する。ソバダツ山とカタムク山が相対しているのだろう。

 しかしながら、それにしても、なるほどこの山は並のスケールではない。天皇家の権威を正当化する神話のスタート地点としての風格を十分備えている。

 「もう少し登ると阿蘇山も見えるよ」、豆ちゃんは得意満面である。ええっ、阿蘇山も見えるのか。ここは一体どこなんだ。地理に疎い四国組は恐れ入っている。

 そして騎牟礼城址に登り始めると、なるほど、傾山・祖母山の2座に対峙すべく、西の方に阿蘇の連山が姿をあらわしてきた。そしてこの三つの山の前景は、波打つがごとき緑の森の海である。我々は何度も何度も感嘆し賛嘆し、絶景に酔いしれた。

 そもそも竹田市の一帯は祖母山と阿蘇山、そしてここからは見えないが久住山の三山に囲まれた竹田盆地にある。ここ騎牟礼城からはこの盆地の大略を見とおすことが出きる。この眺望の良さによって、この地は、豊臣秀吉の島津攻めでも、明治の内戦でも、軍事・交通の変わらぬ要所として尊ばれたわけである(と思う)。

 さて、豆ちゃんはいつどのようにしてこの絶景を知ったのであろうか。

 結論を言っておくと、まめちゃんはこの絶景を独力で発見したのだそうだ。

 部落の人々は引っ越してきたまめちゃん一家を歓迎してくれた。無人の屋敷の手入れを手伝ってくれたし、屋敷のお化粧直しの進捗振りを毎日楽しみに見に来てくれる人もいた。床下のミツバチの巣の値打ちも教えてくれた。

 しかし、ここから歩いて20分、集落の裏山にあたる騎牟礼古城から見晴らせる、豆ちゃんの常套句でいえば「最高」の眺望については、ついに誰も教えてくれなかったということだ。(豆ちゃんの「最高」はたんに「すばらしい」くらいの意味だが、ここでは最上級表現と思ってもらいたい)

 豆ちゃんは、ある朝散歩しながらお気に入りの田園風景を満喫していた。集落のはずれまで来て、いつも買い物の行くために下っていく広々とした坂道に出たとき、ここより上は行った事がないことに気づき、とりあえず登ってみることにした。

 そして、まもなくあの絶景を独力で発見することになったわけだ。
 そのときの豆ちゃんの気持ちは狂喜に近いものだったに違いない。『ここが最高!』『いやここが最高!』とつぶやきながら、一歩一歩感動に浸りつつ、裏山を登っていったに違いない。それが証拠に、豆ちゃんは、騎牟礼の城跡の草地のとある一点を指差して、『ここが最高!』と断言したものである。
 思うに豆ちゃんは、屋敷の庭から財宝を掘り出した気分だっただろう。

 集落の人々にとってこの絶景は語るに足るものではなかったのであろうか。日常生活は、いかなる絶景をも空洞化するものと見える。

 憧れの明国に渡り、かの地においても画僧としての名声を博し、禅僧としては四明天童山の第一座を得た雪舟が、帰国後の50歳代後半の放浪の時期、大分でもしばらく画房を構えた。そして名瀑「沈堕の滝」を描き『鎮田瀑図』をものした。しかし、土地の人々はこの名瀑が湛える水を農業あるいは生活用水として利用し、この滝の目測わずか10メートルの上流にダムを作ってしまった。そして今や名瀑の水源はダムのこぼれ水と成り果てているのである。旅人には想像もつかない扱いである。

 絶景は旅人にとって初めて絶景となるものなのであろう。幸いなことは豆ちゃんの心が生涯旅人のそれでありつづけるに違いないことである。豆ちゃんは永遠の旅人として、10年後も、来訪する人ごとに、あの絶景を、あの滝を感動を持って案内していることだろう。

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