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  1999年10月8日(金曜日) 晴れ
忘暮楼が膝を打った話

忘暮楼は、以前から、アマチュア・スポーツを称揚する傾向については批判的に接してきた。スポーツが世界平和に貢献するとする見解や、若さというものに至上の価値を見出そうとする傾向についても、これらは必ず背後にやましい動機が隠れているに違いないと批判してきた。また、精密な測定機械がなければ成り立たない「100m走」はもはや無意味だとも書いた。さらにオリンピックそのものについててもこれを廃止すべきだと主張してきた。

 以下、そういう立場の忘暮楼が膝を打って喜んだ、『スポーツ文化を学ぶ人のために』の序論(井上俊)の”スポーツの理想化に対する批判の紹介”部分の要約である。

 クーベルタンの同時代人であるソースタイン・ヴェブレンは『有閑(レジャー)階級の理論』(1899)でスポーツ礼賛論を次のように批判しているそうだ。

  • スポーツはもともと上流有閑階級がみずからの優秀性のしるしとしての余暇を見せびらかすために行う活動である。
  • スポーツは結局のところ競争的な略奪的衝動に基づくものであり、そこで発現し、育成強化されるのは、暴力と詐術、狂暴さと悪賢さに他ならない。
  • スポーツのルールは許容される不正の限度や細目を決めたものとも言える。
  • 敵を倒すための不正直な行為はスポーツにはつき物である。
  • スポーツの普及は詐術への依存心を育て、自己中心的な心を発現させることになる。
 さらに、アドルノは1941年の講演の中で、ヴェブレンの批判を踏まえて、近代スポーツを次のように分析し批判したという。
  • スポーツ行事は全体主義的な大衆集会のモデルだった。
  • スポーツの場では、「無慈悲と攻撃性」が「ルールの遵守という権威主義」と結びつけられ、そこに「許された暴力」が生ずる。
  • スポーツには、自ら服従し苦しみたい、というマゾヒズム的な契機があることに目を向けるべきだ。
  • スポーツ精神は、過去の社会形態の遺物であるだけでなく、画一化と標準化を特色とする新しい社会への適応でもある。
  • 近代スポーツは肉体を機械に同化させようとすら目論んでいる。それゆえどのように組織されようとも、近代スポーツは非自由の国に属する。
最後に、ジョージ・オーウエルの1945年のエッセイ。
  • スポーツが国際的な友情を生むといった話はナンセンスである。
  • ナショナリズムと結びついたスポーツ・イベントは、鉄砲抜きの戦争であり、それは容易に憎悪の供宴と化してしまうものだ。
  • ナショナリズムは、遊びではないスポーツ、つまりシリアスなスポーツを生み、そしてそのようなスポーツは、観衆の、憎悪や嫉妬や自慢、ルール無視や暴力をの快感=サディスティックな快感と絡むのだ。
    出典『一杯のおいしい紅茶』(G・オーウェル 朔北社、1995年)
 間違った理解もあるかもしれないが、とりあえず予習ということでメモしておいた。

 


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