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  1999年7月18日(日曜日) 曇りだったかなあ
母のベッドの横で

 母親が大腿骨を骨折して歩けなくなったのが一昨年の正月。入院したが心臓に負担がかかりすぎるという医師の判断で手術はしないで足を牽引することになる。医師が即座に言ったのは「必ずボケます」ということ。

 そしてすぐボケ始めた。半年くらい牽引して完全にボケた。

 老人保健施設に入った。3ヶ月位してボケがかなり後退して普通の話に近い話が出来るようになった。そのうち他の保健施設へ移らなければならなくなって、移ったらまたボケた。引越しはボケの素である。

 もう一度、元の保健施設に帰ったらまたボケた。引越しすると訳がわからなくなるらしい。

 今年の正月は家族全員そろってにぎやかだったのだがその後施設で肺炎になってしまった。入院したらすぐにボケた。

 忘暮楼はこの間、母を見るたびに、生きているということの値打ちを考えた。
 考えざるを得ないのだ。あんなにしっかりものだった母親がこんなにアホになってしまって、それで、どこに生きている値打ちがあるんだ、と。

 あるときは猫のほうがましだと思ったりもした。猫はなんの役にもたたないが、そこにいるだけでうれしい。母親は何の役にも立たないところはおなじだが、うれしい存在ではない。

 でも役に立つ人間、優れた人間だけに生きる資格があるという考え方はヒットラーのものではなかったのか?民族浄化や優生学を生む思想なのではないか。もっとほかの考え方があるのではないか…。

 こんなときに出会ったのが映画「ユキエ」であった。

 映画「ユキエ」のなかで「slow goodbye」という言葉に出会った。そして忘暮楼はすこしく救われた。
 私は母は死ぬ準備をしているのだと考えることにした。ゆっくりと「さよなら」の儀式をしているのだ。

 去年の夏は義父の初盆で、義弟の家族は、長崎らしく、りっぱな精霊舟を作った。ずいぶんの時間と費用をかけたようだが、これも slow goodbye なのであろう。

 母は、病室のベッドで、鼻に栄養剤を摂るチューブと酸素を吸入するチューブをいれてもらってひたすら寝ている。手を握っても返す力もない。しかし生きている。生きつづけて、夢の中であの人この人に繰り返し繰り返しお別れを言っているのかもしれない。

 「ごくろうさんでした」
 「ありがとう」
 「ようがんばったね」

 ソファに座った忘暮楼が心の中でつぶやくお別れの言葉はこんなところだが、それでも、夏の夜、母とこのように同じ時間を過ごせるのは幸せなことだ、と思ったりもするのである。

 

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