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  1999年7月17日(土曜日) 曇り
私立学校経済学(?)ノート 

「市場メカニズム」の勉強をしながら作ったノートです。
私学を経済学的に見るとどうなるか…(^_^;)

【人間の欲望を充足させるものを財・サービスという。教育や医療のように無形物で人間の欲望を充足されるものがサービス(用役)である。】
【財・サービスを経済客体といい、経済客体である教育サービスを売買する親たちと学校を経済主体という。】

 学校が提供しているサービスは、子どもを中心に考えると、知識・技術の伝授、スポーツ・文化を享受する場の提供などであるが、「経済主体」という点から考えると、このサービスの購入によって欲望を充足するのは、子どもではなく親だということになる。
親は自分が子どもに与えたいと思う教育サービスの供給を求める。これが「国民の教育権」の依って来(きた)るところなのであろう。
 【教育や医療などは直接に人間の欲望を充足させるという意味で基本的には直接サービスである。】
【これに対して通信や運輸などは、サービス自体は欲望を充足させるものではなく間接サービスとよばれる。】
ここでも欲望を充足しているのは経済学的には子どもではなく親である。つまり経済学的には、親に満足を与えられない教育サービスは欠陥商品である。
寝ている子どもを起こそうとすると「なんで起こすんぞ」などと不埒なことを言う生徒がたまにいるが、寝させておいて満足する親はそうはいない。これを放置しているとするようでは血管商品と噂が立ち始めるのである。
もっとも、卒業さえさせてくれれば起きていようが寝ていようが関知しない、という親もいるかもしれない。そういう親が増えてくると学校もそれなりに変化していくのである。こうなると教育サービスも間接サービスめいてくる。つまり、子どもを産業社会へ運び込む宅急便みたいなもので、どのルートで運ぼうと決まった時間に配達を完了すれば喜ばれたりするのである。
【私立学校の提供するサービスは、公的な性格を強く帯びた私的サービスである。】 
【私立学校は、自分が提供する教育サービスの内容を自分の意思で決定する

 個々の私立学校は、憲法・教育基本法・学校教育法等の枠内で各校が親たちに提供する教育サービスを企画していく。ここで公的な性格を帯びることになる。私立学校は、どのような教育サービス(大学準備教育、大学入試対応教育、特進教育、不登校生徒の支援、スポーツ活動、専門教育…)を、何人(定員)分、どういう方法(一斉授業、体験学習、少人数クラス、時間講師大量採用…)で提供するかを、自分の意思で決定することができる。

【私立学校は授業料を支払う不特定多数の人々にこれらのサービスを提供する建て前で供給する。】
 私立学校は授業料を支払わない親には教育サービスの提供を停止する。

 現在不況は依然として深刻で雇用不安はますます増大し、親の中には、収入の激減や、首きりによる収入の途絶によって授業料を支払えなくなっているものも増大しており、私立学校がそういう親に対してサービスの提供を停止する例も増大が予想されている。

 エレベータ施設がない学校では、車椅子を利用する子どもを持つ親には、事実上、教育サービスを提供しない。県立高校の場合は1人でもそういう生徒が入学すると、それにシフトするのだが、私立学校の多くはそういう親にはサービスを供給しないのである。これを当然視する学校は、人権にたいするあいまいさを温存することになるはずである。かといって、県立高校における人権意識の現状を評価することもできないのだが、それはまた別な話題。

 さらに、子どもが、不特定多数への正常な教育サービスの提供を阻害する場合は、その親にも教育サービスの提供を停止することがある。これが石川啄木が受けた退学・放校処分である。病院でいうなら、ほかの入院患者に不利益を与えつづける患者を強制的に退院させるといったやり方で、サービスを提供する側の自己防衛措置といえる。

 現実にはそういうことがあるが、建て前としては、授業料を支払えば誰でも受け入れることにしているわけである。 

【しかし、このサービスが私立学校の構想どおりに確実に売れる保証はない。】

【私立学校が提供しようとするサービスは、買い手である中学卒業者の親たちの選択の対象となり、評価の対象となる。】

 親たちが選択し評価し、サービスの提供者を決める。その際は、実際に選択したものの評価が第一義的に基準となる。口コミである。ある人がサービスを購買して当初の期待に近いサービスを受けることができたかどうか、ここがもっとも大事な点である。それは日常の購買活動と全く同然である。

最近の入学生数の変遷からも分かるように、1989年から始まった中卒者減少期においても、実際の入学生数の変化は学校によって相当の違いがある。
 松山市内の私立高校でも、ほぼ同じくらいの入学生が続いている学校もあれば、50%くらい減少した学校もある。この違いを生み出す背景に、例の「県立高校補完機能」がどう影響しているか、探ってみたいところである。案外、私学的でないところのほうが健闘していたりするのかもしれない。

 個々の具体的な背景はわからないが、最終的には、親がどんなサービスを求めているのか、学校がどう応えているのか、という問題に帰着するのである。  

【中学卒業者の親たちと私立学校の間のこのような関係が、私立学校に置ける基本的な市場関係である。】

【そして、この市場関係で需要(特定の教育サービスに対する購買力の裏付けのある欲望)と供給(教育サービスの提供)を一致させるように作用するメカニズムが市場メカニズムである。】

【しかし、実際の市場で私立学校の教育サービスの供給と、親たちのそれへの需要とが一致する保証はない。】

 既に述べたように「生徒締め出し路線」によってミニマム教育を進めてきた県行政は、私立学校の「県立学校補完校」化を助長してきた。しかし、私立学校が県立学校の真似をしようとしても、財政的に言ってすでに無理である。それは「県立学校ごっこ」となるほかない。

 「県立高校補完」の切り札としてほとんどの学校が打ち出している「特進」路線は、「特進」生徒と「非特進」生徒の間に、また「特進」教員と「非特進」教員の間に、そして「進学指導」教員と「体育部指導」教員のあいだに、深刻な不公平感を助長しつつある。

 提供する教育サービスを、どのようにして広範な親たちの需要に一致させるか、県立高校が提供できないサービスでかつ親たちの需要に合致するものはなにか、難しい問題だが、ここが要である。すきま産業(ニッチ産業)的な発想がものをいう時代かもしれない。不登校の生徒、高校中退の生徒、成人への教育サービスなどもこの発想から出てきたものであろう。

【実際の教育市場で、授業料等の変動や各教育サービスの提供量の調節(入学人数の修正)によってその需給一致が図られるのが市場メカニズムである。】

 中卒者の減少が始まって10年たったが、これからまだ10年続く。その後がどうなるのかまだ分からない。この状況の中で、大規模私立高校は、教員配置、生徒定数、学科編成等について、学校規模の縮小を見とおした、積極的な戦略を持つ必要があるのではないか。

 県立高校は、生徒減少期を利用して40人学級制への移行を完成した。生徒数が減少する時期こそ、教育条件整備のチャンスなのである。今度は私学の番である。県も県立が40人学級になればそれでおしまい、とは言えないはずである。

 県は、私学助成金の大幅増額を進めるとともに、私学助成金の配分についても、単純に、生徒数が多いところへたくさんの助成金が行くというのではなく、1人1人の親への教育サービスの向上に力を注いでいるところに手厚く配分できるよう基準を見なおしてもらいたい。それが県民への県のサービスということになると思う。


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