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  1999年6月23日(水) 曇り
善意を捨てるってのはどう?

 世間の営みに不可欠なものではあるんだけど、あればあったで、すこぶる世間を面倒にしているものがある。
 国境線、人権、母性愛、家庭、学校、選挙、政党、正義感、愛、……

 「善意」というものもその一つである。『広辞苑』はこれを「他人のためを思う心」とも説明している。

 年間40日からある年次有給休暇は、職場によっては必ず消化しきるように叱咤激励されさえするのであるが、われわれの職場ではなかなか自由に取れない。その主たる原因は、教職員の「他人のためを思う心」、つまり善意である。自分が休めば同僚に、生徒管理のむつかしい自習時間が当たる。申し訳がない。

 4時間授業が日常化するといっそう休みにくくなる。その結果、心もからだも慢性的な脱力・疲労感に覆われる。教育活動への前向きな取り組みが億劫になる。そこでMannerismだ。

 「休みにくさ」を湧出するのは自分の心である。「万法是一心之作」(だったかな?)。私が自分の心を変えれば、つまりこの分野での「善意」を滅却するならば、うんと休みやすくなるわけだ。
 自習時間が多くなると同僚の私に対する不満はしだいに募るかもしれない。この白眼視にじっと耐える。知らん顔する。鈍感になる。悪者になる。
 ここが大切だ。この不満がある水準まで達すると、それはきっと変革の力になるはずだ。その日までじっと耐える。悪者になる値打ちはあるぞ。

 …という作戦はどうだろう。自習問題を用意する、くらいの「善意」だけ残して決行してみるかなあ。 

 ただ、この作戦は、「あいつだけ楽をしているのはおかしい。わしも休むぞ。」という人が増えてこないと本当の力にならない、という弱点がある。まあ考えてみよう。


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