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  1999年6月14日(月) 晴れ
野忽那島

野忽那についてのメモ

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1878(明治11)年の戸数172、人口952  (愛媛県百科大事典)
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 1914(大正3)年の戸数201、人口1,120。
 漁業は江戸期に続いて盛んで、1903(明治36)年には野忽那漁業組合、1908(明治41)年には睦野遠海出漁組合が発足。
 行商も北海道から九州まで反物を売り大正末から昭和初期が最盛期であった。(角川書店『角川日本地名大辞典』)

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 今回の訪問に当たって、地元の堀本さんというかたから次のようなお話を伺った。(以下同行の松原満紀さんのメモ)

 堀本さんの祖父は朝日丸という船を持っていて、天草、五島、朝鮮へ伊予がすりの行商にいっていた。
 この島には10隻くらい同じような船があって「しまうり船」と呼ばれていた。一隻に20人くらい乗った。
 (後で見せてもらった写真によると島にはずいぶんりっぱん家が立ち並んでいた様子です。
 金貸しもしていたとのことで、大福帳のような金貸し記録を見せてもらったが、かなりの達筆であった。また、貸し額が半端でなかった。つまり、当時に隆盛が十分に証明されるようだった。)

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 沙漠がシルクロードをはぐくんだように、海は「伊予がすり」の道を育てた。『愛媛県百科大事典』は「伊予がすり」と「野忽那」の関係を次のように記している。

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 伊予絣は明治末期から大正初期にかけて久留米、備後と並んで全国で三大産地を形成した。庶民の好みにあった柄、染めやすさ,木綿特有の丈夫さが消費者に受け入れられ温泉郡睦月(野忽那の隣の島)・野忽那(現中島町)の行商人によって北海道までその名が知られた

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 現在の野忽那は人口が300人台。柑橘栽培が中心の美しい島である。村の墓場には戦没者の墓が林立していた。


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