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  1999年6月7日(月)
いろんな時間  「へぇーーっ ?! 」再考

 「忘暮楼も若手といわれたことがあったんよ」といったら「へぇーーっ?!」と驚嘆された話がありましたね。「つまり、(私たちが)年を取るのが下手になっているということかな」と書いたのですが、チョット違うような気もします。

 母の名は親父(おやじ)の腕にしなびて居(い)

 本日購入の『俳風柳多留』(集英社文庫)の一句。「みよ命」などと彫った二の腕の刺青が、父親のしなびた腕に残っているという句。子どもはそれをみて「やるなあ」と苦笑いしつつも、自分が二人の愛情のいわゆる「結晶」であることを幸せにも思う。「しなびて」も親父の気持ちは刺青を彫ったころのままなのか。

 「年を取るのが下手になった」のではなく、昔からこういうものだったのでしょうね。

 私たちが生きている生(なま)の時間は、決して一つだけではない。

 まず、四季の繰り返し。これは円環状の時間であって必ず元へ戻ってくる。しっかり数えてい「ないと何回戻ってきたか、すぐ分からなくなってしまうが、忘れてもとくに不便はない。元号では過去の計算がいくら難しくても使われるのは、計算できなくても大した不便はないからだ。

 次に、いわゆるAGINGやGRAYINGによる身体の変化です。こいつがこのごろは結構長持ちしまして、手入れをしておれば何時までも元気です。ボケても身体は元気で痴呆性徘徊がよく話題になるほどです。

 最後に、これは時間と呼ぶべきかどうか、昨日の私と今日の私、一昨日の私と今日の私を同じものと思う自己意識。まるでティッシュ・ペーパーのように、同じ私が毎日毎日つぎつぎに現れてきます。

 どれをみても時間はなかなか流れません。いつまでも昔のまま。

 時計の刻む時間は、結局は、セシウム133の原子が放射する「光」の周期をもとにして刻まれているのだそうです。だから、時計の刻む時間で自分の人生を考えるってことは、誰かの「貧乏ゆすり」の回数で自分の人生を考えるのと同じことになるわけですね。


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