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  1999年5月11日(火)
生きている化石

 当たり前に使っていた言葉が、実は「問題語」であった、ということがよくあります。

 たとえば「アマチュアリズム」を忘暮楼はずっと肯定的な言葉として使っていました。100メートルのカール・ルイスの「アマチュアリズムは貴族主義だ。貧乏なスポーツマンを追放する思想だ。私は企業の支援なしでは必要なトレーニングに専念できない。」という批判に接して初めてその問題点を知ったのでした。忘暮楼がスポーツ思想に興味を持ち始めたのもこの批判からでした。

 「健全な精神は健全な身体に宿る」などもそうです。なんというむごい言葉でしょう。

 いま『進歩の発明--ヴィクトリア時代の歴史意識』(ピーター・ボウラー著)を亀読み(? 精読ではなくただ遅いだけ)していますが、そのなかで「生ける化石」という言葉が出てきました。

 シーラカンスを「生ける化石」と呼ぶ場合、シーラカンスは「進化」を停止しているという認識があるわけで、他の種に進化「出来ない」くらいならとっくに滅びていて当然、といった雰囲気です。

 これが大英帝国時代の「発展論」という考え方だそうで、動植物にしろ人間にしろ、自分たちの世界に属する現存種を理想と考え、過去の種はすべて現在への準備段階と考えます。また、自分たちの世界につながる種を「発展の主系列」と考え、それ以外の系列のものは「生ける化石」ということになります。

 大英帝国時代人=ヴィクトリア時代人は、チュートン人の子孫であり、かつ、神の恩寵を受けて発展してきた自分たちこそが人類の発展の極にあると考えたのだそうで、アフリカやアジアの異教の「未開」人を異教であるがために発展を停止した「生ける化石」と考えたのでした。
 だからこそ植民地拡大によるキリスト教の布教を、人類を救う慈善的な事業と思いこんで推し進めて来たのでした。「生ける化石」を「発展の主系列」に乗せてやろうという温情です。
 大日本帝国による朝鮮支配も”陋習に埋没し、停滞しきっている朝鮮経済”を優秀な日本民族が近代化してやろうとしたのだ、と説明する人もいるようです。これも「生ける化石」思想です。

 さて、シーラカンスは、人間たちの絶滅宣言などどこ吹く風、賞金稼ぎたちの手で次々と発見されるまでの7000万年を悠々と自分たちの桃源郷で生きつづけてきました。ちょうど人間たちが、今の人間の姿を1000年先も万年先も変えたくないのと同じ理由で、シーラカンスは昔の姿を保っています。 


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