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  1999年5月7日(金)

 遠足。来島大橋を渡り、吉海町の薔薇公園へ。

 昨日、カミさんが美容院へ行って、「来るときもうれしい、帰る時もうれしい」という文句を拾ってきた。

 美容院の奥さんにお孫さんができて、連休中遊びに来ていたのだそうだ。そのお孫さんのことで奥さんが「『来るときもうれしい、帰る時もうれしい』っていうけどホントねえ」と話していたという。

 なるほどなあ。かわいい孫だけど、お相手するのは結構大変なんだろうなあ。

 感心しながらも、ふと、別子山村のキャビンでの夕食の席で、シングル・ライフのアオチャンが同じことを話していたのを思い出した。
 「どうして私が一人でいなければならないのだろうと考えると腹がたってくる」と恐ろしいことをいったあのアオチャンである。

 「一人は寂しいので人が来てくれるとすごくうれしいのだけど、帰るとまたほっとするんよねえ。どうなっとるんやろ。」
 昔からどことなく哲学的なアオチャンであるが、この言葉も考えさせられる。

 われわれが人にあうのは、通例、自分の気持ち理解してくれる人がほしいからである。

 自分を本当に理解してくれている他人の前では、人は寡黙になる。
 「一緒にいて、1時間黙っていても苦痛を感じない人がいたら、その人があなたの親友である」と診断する人もいる。親友の一種になった夫婦は、もうしゃべる必要がない。

 相手のおしゃべりを聞き始めると、もう会っている意味は変質し始めているのかもしれない。
 以前、忘暮楼は、二人の友人を相手に3時間もしゃべりつづけた。罪深いことをしたのであろう。

   


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