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  1999年4月11日(日)
「苔のむすまで」とカラダ

「君が代」(今日は、以下「苔のむすまで」と呼んでみる)の続きデス。

「苔のむすまで」を歌うとき、あるいは歌わないときの不快感と言うのは、 忘暮楼の場合は生理的なものみたいなのです。
この生理的な嫌悪感と言うのは、感じる人は感じるし、感じない人は感じないと いったもので、正しいとか正しくないとか言うものとは違うんですよ。そして、そこに 問題の深刻さがあると、忘暮楼はにらんでます。
忘暮楼が、気になるのは、身体のことなのです。
歌を歌うということは身体運動ですよね。一つの歌を歌うのどのくらいの数 の筋肉を緊張させ弛緩させるのか知らないんですけど、他人に歌を歌わせるということは 結局、他人の筋肉の動きを支配するという言うことでしょ?肺臓の収縮を支配することに よって呼吸を支配し、 声帯の緊張を支配し、あごの動きや舌の動き、唇の動きやノドチンコの動き、 そして私たちが直立しているためのすべての筋肉を支配するわけです。
忘暮楼にとっても、歌というものは自己表現の手段ですので、カラオケで悪いお友達から 、いつもの「タートエシンデモイーイワー」の絶唱を強いられても、それはそれで気持ちよく 諸筋肉を緊張させてしまいます。「苔のむすまで」だって、好きな人は何でもないんですね。 それどころか、歌うたびの感動する人だっている歌も知れません。
でも、強制されると、話はがらっと違ってきます。

「ある学者は、カール大帝(742―814)が軍事力によってグレゴリオ聖歌を普及させ ようとしたのは、フランク王国統一のための重要な手段であったといっています。」(注)
統一国家を創出するために、人々に同じ歌を歌わせた王もいたわけです。これも基本的には 国家による身体支配、身体支配による国民創出だったのだと思います。

別に歌でなくてもいいのです。大名行列に出くわせば道端にかがませ顔を上げさせなかった。 日本帝国時代のソウルでは、朝鮮総督府の建物の前を通るときは顔をあげさせなかった。うつむいて歩かせた。
ある生徒が書道練習室に移動するとき、ほかのある生徒に自分の筆を持たせる。これが完璧ないじめなのです。 その生徒を裸にしてみるとなんと殴られたりつねられたりした痣が一杯ついていた、という経験があります。

筆は軽い。歌はもっと軽い。でも重量は問題じゃない、身体の支配に事の本質があるんだと思います。

忘暮楼は『夫婦鏡』を歌う。君は「苔のむすまで」を歌え。

    (注)『自分の中に歴史をよむ』p196 阿部謹也著 筑摩書房


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