1999年3月20日(土)
オリンピックはいらない

3月16日は二年生のクラスマッチだった。そのときちょっといいものを見た。
競技種目は、雨の日でも予定通りできるようにということで、バスケットボールだった。私は本来自分の授業時間にあたる時間だと言うので監督に出張っていた。
ただ、結構格闘技的な要素があるので、実際今までにもクラスマッチの途中で険悪な雰囲気になったこともある。私は寒い体育館の隅っこで、小声で「秋田船方節」の練習をしながらゲームを眺めていたのだが、途中で面白いことに気がついた。
審判がいないのである。時折ややこしいプレイもあるんだけど、審判なしでゲームはスムースに進行していくのである。クラスマッチ全体の進行は女子生徒が仕切っている。
これで試合をみるのが一層面白くなった。この子達が大人になったらちょっと粋な社会になるんじゃないかな、と3,40年先のことを考えたりもしながら見入っていた。
なぜこのようにおっとりと、楽しげに、紳士(?)的に進んでいくのだろうか。それは生徒たちが遊びに徹しているからだと思う。スポーツは本来遊びなのだ。遊びがルールを産み,遊びだからこそ自主的にルールを守るのだ。クラスの名誉とか学校の名誉だとか、あるいは国家の名誉だとか、そんなものが絡むとだんだん目が吊りあがってくるのだ。

さて、「より速く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)」がオリンピックのモットーだという。
せわしないモットーだなあ。落ち着きがない。他人と競うことや他人を否定することに最大の価値があるという考え方である。私はこんな考え方のために世界中の若者を動員することに賛成できない。このようなモットーは、個人的な、同好の人間同士の間でのみ言いたてられるべきで、公共の場や子どもたちの前で語られるべきものではないと思う。
あの生徒たちの、のびのびとした、自律的な楽しみかたの方にスポーツ本来の姿があるように思う。

IOCの腐敗ぶりが指弾されている。これまで表に出なかったものが表に出た背景にはアメリカのジャーナリストたちの取り組みがあったらしい。アメリカ人ジャーナリストたちがアメリカでのオリンピックを取材し、IOCのお歴々のゴッチャン精神に直接触れてビックリした、のだという。
私は、腐敗も問題だが、オリンピックそのものが無用の長物だと思っている。
オリンピック憲章の第1条をまとめると「スポーツの基礎である肉体的、道義的性質の発展を推進し、スポーツを通じ相互理解の増進と友好の精神によって若人(わこうど)たちを教育し、それによってよりよい、より平和な世界の建設に協力する」(「小学館百科事典」)となる。
この第1条をよく読んでみると、オリンピックがスポーツをなにか別のもののための「手段」と考えていることが分かる。そしてナチス・ドイツも往年の米・ソもたしかにオリンピックを別のもののために利用したのだった。
第11回大会(1936・ベルリン)〕は独裁者ヒットラーが国威宣揚のために準備した大会であったのに、49カ国から五千人近くの若者が集い、ドイツ国旗として使われたナチ党旗の林立の中で友情を深めあった。そしてのちにナチスと敵対するアメリカも、ドイツと金メダルの数を競いドイツの38個には及ばなかったが、24個の金メダルを獲得して満足したのだった。
このときにオリンピックの廃止が検討されるべきだったのだ。そして中止になった第12回大会(1940・東京)でもって完全に廃止されるべきだったのだ。

うーん、どうも最近暗い発想が多いなあ (▼▼)


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