忘 暮 楼 日 記 
2004年9月27日月曜日・28日火曜日

朋あり 遠方より来たる またたのしからずや


  大学時代の友人たち三人が松山を訪ねてくれ拙宅に一泊してくれた。北海道と、東京と、静岡から来てくれた三人だ。それぞれの旅を終えて、四十年ぶりに会ってみたのだが‥‥。
  たとえて言えば、昼飯時に、それぞれの成り行きで、中国料理店で食事をした人、割烹で食事をした人、韓国料理店にあるいは沖縄料理店に行った人、さまざまな昼飯だったが、それぞれの食事を終わってまた会ってみると、みな満足げである、といった風情。善哉善哉。
 28日は予定していた早朝の列車に乗り遅れ、宇和島まで車で送った。自動車道が西予市宇和町まで延びたので、宇和町までが1時間、宇和島駅までが1時間半だった。急行列車並みだ。宇和町の「どんぶり会館」という楽しいスポットを見つけた。野菜類、魚、特産品、どれも充実している。韓国の「ナヌムの家」へ持っていく梅干を買った。
 夜は近所の写真クラブの家族ぐるみ室内観月祭に余興で呼ばれて、十九の春やあさどやユンタや豊か節、そしてトーシンドーイと楽しんでもらった。しかし、まあ。これはもうお座敷芸人だね。
2004年9月26日日曜日

WELCOME


公園の掃除のあと、久しぶりに自分の部屋の掃除をした。明日は大学時代の友人や先輩が拙宅を訪ねてくれるのでその準備のひとつである。客があると家はきれいになる。

ガンジーは一日に2時間は肉体労働をするよう勧めたそうだが、2時間というとずいぶん長い時間だ。私の朝の公園清掃は40分から60分といったところだ。
2004年9月25日土曜日

音楽の力


 今日は弦友のNさんと今治のグループホーム「皐月」に出かけた。ここの訪問も月一回のペースで続けてきたが今回で5回目。今回は、音楽の力の強さを実感できる出来事があった。
  このグループホームに82歳のおばあちゃんがいる。Bさんとしておこう。Bさんは、これまでの「サンシン歌あそび」では、ちょっと距離をおいて適当に楽しんでもらっているといった風であった。そのBさんが今日の遊びで、生まれて初めて「ミハルス」(簡易カスタネット)を手にした。「ドンパン節」や「里の秋」にあわせてミハルスを操っているうちに、いい音が出せるようになった。「ハトポッポ」から「チューリップ」に移り、「浦島太郎」に入った頃にはBさんはもう別人のようになって、タ・タンと二階続けて打ったり、大きな身振りで手をひねりながらタンと打ったりミハルスの演奏にすっかり夢中になっておられたのである。快活な笑い声をあげてお隣のおばあちゃんと目を見合わせながら本当に楽しそう。
  グループホームのスタッフの皆さんも初めてみる、Bさんのあたらしい姿だったようである。
  音楽遊びはすごい力を持っている。  

空の思想

  
父の60回忌の供養として父親の命日(6/4)から母親の命日(8/26)までの間に法華経(六万九千三八四字)を読誦することにしたが、これは八月中旬に読み上げた。昨日から二回目の読誦にとりかかったところだ。

  今日は無量義経2を読んだが、法華経と般若心経とは相当遠い思想なのかと思っていたが、「空」思想は法華経においても重要な思想だと知った。これまで法華経とともに般若心経を唱えてきたことにそう間違いはなかったわけだ。

最近の体の状態
9月にはいって坐骨神経痛の痛みがほとんどなくなった。
メガネがあってない。視力が落ちたみたい。
体重 ちょっと太り気味=就寝前パンツで測って80.6kg
血糖値 高い
ヘモグロビンA1C また上がり始めた
足の指先 しびれている
夜中のトイレ 最近ほとんどなくなった。
口ひげ よく伸びる。
食欲 旺盛(過ぎ)
毎日飲んでいる薬 三種類になった。
2004年9月24日金曜日

忘暮楼が生まれた街


9月20日午前中、私は私の生まれた街を始めて訪ねた。

近鉄南大阪線河内天美駅。
大和川。私の生まれた街は大和川と河内天美駅との中間にある。
駅からぶらぶら歩いていると天然温泉天美薬師の湯が現れた。
「天美薬師の湯」を背に一本道がある。ここが昭和17年から19年にかけて、私が母に背負われて歩いた道らしい。
このあたりは昭和17年当時はほとんどが田んぼだったようだ。
ここの質屋さんのご夫婦に昔のことをお聞きした。ご主人が91歳のおばあさんを紹介して下ったが、私が住んでいた家がどこかはわからなかった。
まあ、このあたりということにしよう。
河内天美駅前の商店街だ。狭い商店街だが活気があった。
ここで記念に腕時計を買った。
その記念時計
2004年9月23日木曜日

フェンスの内と外 もう一度


以前米軍基地のフェンス上部のカエシの話を取り上げたことがあった。→ここ
刑務所のフェンスを見ればわかるように、カエシの傾いている方向がフェンス内部、つまり囲われている側である、つまり、今日の米軍と沖縄県民との関係は、捕虜収容所や収容キャンプにおけるそれの継続である、と言いたかったのであった。
そのカエシの方向の意味が見事に検証されたのが8月13日の沖国大キャンパスへの米海兵隊ヘリ墜落事件であった。
沖国大に海兵隊ヘリが落ちるとほぼ同時に、米兵五十人が普天間基地のフェンスを乗り越えて事故現場に一番近い第2駐車場から大学構内に侵入してきた。米兵たちは
真っ先にかけつけていた宜野湾消防隊員の消火活動を制止して、散乱する機体の破片回収に走ったのです。つまり、軍事機密の保持に走ったのです。
沖国大米軍墜落事故学生大作委員会サイトの「検証」その2
下の矢印マークをフェンスと見立ててみよう。「→部分」がカエシである。このカエシが逆の方向を向いているなら、米兵の大学侵入の支障になることは明らかであろう。この形状の選ばれた目的は、いざというときに、「収容者(県民)」を制圧することにあったのである。
普天間基地側  大学キャンパスの事故現場側
沖縄のある居酒屋で、70年12月のコザ事件(ここの伊佐千尋氏の発言参照)の「騒動」側の体験者とこのフェンスの話をしたことがある。かれはその夜米軍基地内に侵入しようと試みた一人だそうだが、このフェンスのおかげではいれなかったよー、と語っていた。
2004年9月22日水曜日

YES,NO


(昨日の続き)今日の日本の、舌先で解決しようとする二枚舌文化、内部告発だけが頼りの非倫理社会、アメリカ政府の決定を憲法の上にある勅令のごとくに受け入れる傀儡政治、これらは「すべて天皇が与えた革命」、「ニセ革命」の結果である。我々は「我々の手で再び解放しなければならない」のであるが、‥‥それは何をどうすることなのだろうか。
  こう考えると、一方で、せっかくある平和憲法、民主憲法を、万が一にも手放すことになるようなことがあってはならない、たとえ天皇から、あるいは占領軍から与えられたものであってもこれは固守しなければならない日本人の宝だ、という考えが当然のように浮かんでくる。 固守すべき世界の宝だ、とさえ思われる。
実際、第9条は、たとえば、大阪で米国の戦略爆撃で殺された15000人の老若男女が,、あるいは広島・長崎の数十万の老若男女が、焼夷弾や原爆の炎に焼かれつつ抱いた悲願そのものである。それはまた南方戦線の島々で餓死を目の前にしてわが身の人生を振りかえり、家族の薄幸を嘆いた兵士たちの思いが行き着くはずのものである。このように、第9条は私たちものであるとともに、死んでいった幾百万の日本人の遺言でもあるのだ。 とすればこれは固守するほかはない。
しかし、憲法9条はいかにも弱々しいではないか。いかにも危ういではないか。いかにもなめられているではないか。これはなぜなのだ?国内での米軍の跳梁跋扈をどうすることもできない。自衛隊の増強、自衛隊の海外派兵も横目でみるだけ。小泉首相の国連常任理事国立候補も見て見ぬふりである。
振り返ってみるのに、日本の国民が、憲法9条を、いや日本国憲法を、国民として支持すると宣言したことがあったのだろうか。国民一人一人が、自分の頭で、自分の憲法を選び取る、という作業をしたことがあるのだろうか。

日本国憲法は「枢密顧問の諮詢」と「帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決」と天皇の「裁可」によって日本人の前に現れたのであった。日本の主権者である日本国民はいまだいちどもこの憲法にたいしてYESともNOとも自分の気持ちを表明する機会を与えられていないのではないか。
「解釈改憲」の拡大を許し、「戦争放棄」を放棄するための「憲法改正」の妄動を許す憲法状況はこのあたりにあるのではないだろうか。
昨日の「愛媛新聞」紙の「現論」での後房雄氏(名古屋大学)のエッセイ「国民の成熟問う憲法改正」に、今井一氏(ジャーナリスト)が「主権者として国会意思を自ら決定するために『9条』の国民投票を行うべきだ」と主張していることが紹介されていた。私が言いたいことを推し進めるとこういうことになるのかもしれない。
2004年9月21日火曜日

御聖断による革命とハム・ソクホン


私は「憲法9条をまもる愛媛県民の会」の第3回例会で次のような感想を書いた。

天皇主権から国民主権への転換は「ポツダム宣言」という「外圧による革命」だとの見解がありましたが、私は、天皇の決断(御聖断)による革命であったというべきではないか、と思っています。だから国体護持という限界があるのも当然なわけです。改憲派も護憲派も共通してこの点に触れないのがどうも気になります。

日米開戦以前に終戦していれば、南進作戦や原爆やじゅうたん爆撃はなかったかもしれませんが、日本人は今日も大日本憲法下に暮らしていたのではないでしょうか。また、天皇がポツダム宣言受諾の「御聖断」をくださなかったならば、連合国はフセイン政権に対するごとき徹底焦土作戦と戦争指導者・戦争責任者の捕縛、殺害を行ったでしょうから日本の戦後はまた全く違ったものとなっていたでしょう。そんなことを思うと天皇の「御聖断」の持つ意味をもっと考えてみたくなります。














  このような考え方は要するに、日本人はみずからの力で自らを戦争国家から解放したのではない、というのである。だから偽物の民主国家、偽物の民主国家、偽物の基本的人権、偽物の地方自治、偽物の三権分立なのだ。そして本物の天皇制、本物の戦争国家志向、本物の抑圧思想がしっかり残されているのである。
一方、韓国人も自らの力で日本の植民地支配から自らを解放したのではなかった。韓国の思想家ハム・ソクホン(咸錫憲)は「解放が我々の力でできなかったのだから、解放になるはずがない。今からでも、我々の手で再び解放しなければならない」と説くのである。