2003年11月1日

沖永良部島をまわる その2 永良部の墓

  南島の一人旅で11月を迎えた。
  我々はこの島を「沖永良部島」と書いて、「おきのえらぶじま」と呼んでいるが、今回のツアーの愛称は「沖永良部(おきえらぶ)の休日」で「の」がない。こう呼ぶ場合が多いらしい。
  一方地元の人は単に「えらぶ」と称している。「沖の永良部島」は本土に近い「口の永良部島」と区別しているのであるが、それはあくまでも本土人の都合。島の人にとっては「えらぶ」で完結しているのである。

  まず、永良部の墓を見ておこう。
  永良部の墓も、与論と同じく「戒名」が刻まれたものは確認できなかった。見たものは「家名」か「本名」である。


  永良部の墓地で目立ったのは戦没者の墓であった。永良部は和泊町の図書館でみた『和泊町誌』には680余名の戦没者名が記録されていた。島嶼部での戦没者のおおいことは愛媛と相通じているようだ。この島には、沖縄諸島と同様、愛媛や徳島でみるような尖塔をもった墓標はなかった。

  下の墓標はブーゲンビルでの戦没者である。

第二次大戦中の42年に日本軍が占領、航空基地となり、海空戦の激戦地となった。43年連合艦隊司令長官山本五十六(いそろく)の搭乗機がこの島上空でアメリカ機に撃墜された。 (小学館「web版日本大百科全書」)

 ↓ 墓標の右には本名が刻まれているが、正面には「吉野家之墓」とこれが個人墓ではないことを示している。このような個人名が刻まれた家墓はこの島の特徴かもしれない。『和泊町誌』によると、分家した新戸主の墓にこういう扱いが多いらしいが、戦没者の場合もあったようだ。

 ↓ 手前の2基は兄弟の戦没者である。正面は「・・家之墓」ではなく、階級と本名が刻まれている。海は「ワンジョビーチ」である。

 この墓では墓譜に「昭和19年ベリリュウ島にて戦死」と刻まれている。

 上の墓譜を持つ墓の全体像である。このような形式の戦没者の扱いは長崎県島原で見たことがある。。

(下の写真)この島の典型的な墓地である。左が正面で右側には与論で見た遺骨を納めるカメが埋められている。このカメがあるということは土葬の前に風葬の習慣があったことを物語っている。墓地は真っ白はサンゴの砂が敷き詰められている。

  『和泊町誌』にある永良部は葬礼の慣習は細部にわたって与論と同じであった。

  下は、畦布地区の海岸(人里からは相当はなれている)にある墓群の一つである。その昔、このような洞窟に遺体は納められた。(畦布トゥール墓群)
下の写真も洞窟を墓とした例。入り口は石垣で塞いでいる。これもかなり古いものである。(屋子母<やこも>セージマ古墳群)