2003年7月29日 月曜日

レポート 接尾辞「グヮ」と沖縄の心

 昨日、宜野湾で、内間先生(琉球大学)の琉球方言特殊講義のレポートを郵送して、その足で空港に向かい久しぶりに松山へ帰った。この頁は松山の自宅で書いているのだが、この静けさはなんなのだ。米軍の軍用機がタダの一機も飛ばないのだ。うーーむ。
  この件は他日書くことにして、とりあえず出来上がったレポートを紹介しよう。この文章は内間先生に提出したものに若干の補筆を加えたものである。

接尾辞「グヮ」と沖縄の心
 
1 はじめに

 年配の琉球方言話者が琉球方言話者どうしで会話するとき頻繁に接尾辞「グヮ」を使用する。「ビール・グヮ」「オツマミ・グヮ」「半分・グヮ」「猫(まやー)グヮ」「犬(イン)・グヮ」「自転車・グヮ」といった具合である。愛媛方言話者である私も酒の勢いで「グヮ」を使ってみると、それを聞いた琉球方言話者が「尾上さんの『グヮ』はなんか変さー」と笑う。このレポートでは私にとっては不思議な言葉である接尾辞「グヮ」の研究史をたどりつつ、あわせて接尾辞「グヮ」を多用する琉球方言話者の意識構造を探ってみたい。(5月23日の記事参照)

2 接尾辞「グァ」についての通時的考察

 接尾辞「グァ」の成立過程については伊波(1935)が、

    こら→クラ→クァ

と解釈した。祖形「こら」は「子等」であろう。宮良(1942)もこれを踏襲し

    kora→ko'a→koa→kwa-(連濁)→gwa

とした。
 伊波(1935)は
  1. 接尾辞「グァ」はもともとヒトに使われたものではない。
  2. 接尾辞「グァ」は最初は「ウマングヮ(馬の子)」、「ウシングヮ(牛の子)」のように、家畜の子に用いられた。
  3. この「グァ」がいつしか小なるものに「グァ」がつくようになった。
とする山内盛憙の説を肯定的に紹介している。「グァ」には愛くるしい馬の子や牛の子に対する飼育者の愛情に満ちたまなざしが込められてきたようである。
  接尾辞「グァ」が人名に付けられた早い例として伊波(1933)は、慶長の役(1596〜98)の頃、大島で「牛臥太郎」というものについての記録があると書いている。「牛臥太郎」は「ウシグヮ・タラー」と読むのであろう。「牛(男)」「ウシ(女)」は琉球の人名に童名(ワラビナー)として普通に使われる名である。
 しかしながら、接尾辞「グァ」が家畜の子や人名だけでなく、「小さなもの」一般にも付けられるようになった経過については、山内氏の「いつしか」以上の考察には接しえおらず不明のままである。
  一方、『古語大辞典』によると、古代語においても人名につく接尾辞「コ」があった。接尾辞「コ」は「女性の名の下につけて、親しみの情を込める」と説明され、「桜に子をつけて桜子」の例があげられている。この、女性の名の下につけられる「子」は今日も「美智子」「真紀子」「タカ子」など女子名の常用されているのだが、琉球方言の接尾辞「グァ」とは遠からぬ関係をもっているわけである。
3 接尾辞「グヮ」についての共時的考察

  琉球方言の接尾辞「グヮ」によく似た語としては東北方言の接尾辞「コ」が挙げられる。宮良(1942)は「東北地方の愛称的接尾指小語『-ko』の意味として次の二つを挙げている。
  1. 「親」に対する「子」
  2. 「大なるもの」に対する「小なるもの」
 宮良氏は「従って〔inu〕や〔ing〕は『犬』『大きな犬』『親犬』を意味し、〔inu-ko〕や〔ing-ko〕は 『小さな犬』『仔犬』を意味する」としている。(このパラグラフの〔u〕は中舌音の〔u〕である。)

 また、山浦(2000)も「実体詞性接尾素 -ko」を「実体詞」の後ろについて」、
  1. 「小さいこと」
  2. 「親愛の気持ちを持っていること」
を表すとしている。このように東北方言の接尾辞「コ」については「かわいらしさ」「ちいさいものへの慈しみ」「親愛」を表現することばと理解することが出来る。

 ところが琉球方言の接尾辞「グヮ」にはこれらとは別の興味深い意味が含まれる。『沖縄語辞典』は接尾語「-gwaa」の意味内容として、東北方言の接尾辞「コ」と類似する次の三つの意味、
  1. 小さいことを表し、またその愛称となる。tuigwaa(とり)、hakugwaa(箱)
  2. 子供の名について愛称となる。taruugwaa(太郎坊)、chirugwaa(鶴子ちゃん)
  3. 少量であることを表す。kuuteeN(ほんの少し)
  4. 分家を表す。kuNjaNgwaa(国頭小)
などのほかに、 
  1. 軽蔑の意を表す。ushumeegwaa(じじい)
を挙げているのである。宮良(1942)および山浦(2000)は東北地方方言接尾語「コ」の意味として「軽蔑」をとりあげておらず、琉球方言の接尾辞「グヮ」独特の意味内容と考えてよいだろう。非・琉球方言話者である私などが接尾辞「グヮ」の使用を試みる歳に見落とし安い点でもある。
  私の三線の師匠は私たち弟子の前で自分の細君を「○○チャン・グヮ」と呼んでいる。そこで私も酒の勢いで「○○チャン・グヮ」といってみると、師匠は「○○チャンはいいんだけどサー、○○チャン・グヮと言われるとムッとするんだよねー」と「抗議」するのである。
  私が師匠の奥さんに「グヮ」を付けるのは過度の親愛表現になるもののようである。本来ある一定の距離を保つべき師匠夫人(あるいは他人の妻)にたいして、「グヮ」の使用によってその距離を無視すれば、他人が自分の妻を軽軽しく扱った印象を受けるのである。
 この例でも「グヮ」が親愛と軽蔑の間に揺らいでいることばであるらしいことがうかがえる。
4 「グヮ」における親愛と軽蔑
  一般に待遇表現というものは、話者が待遇表現の対象とのあいだに設定する距離感の問題である。敬意を表すべき対象には遠い距離を保ち、親愛の対象には近い距離を保とうとするわけである。
  親密な関係にあるもの同士でも、ある改まった話題にうつると急に「です・ます」体による会話に換わることがある。すると一種シラケタ会話になる。逆に遠い関係を保つべき対象を近い物として扱えば、それまで表されていた敬意は捨て去られ、待遇はニュートラルを超えて軽蔑となるわけである。「天皇」を「天ちゃん」など呼ぶときの意味の転移などがこの例である。
  琉球方言の接尾辞「グヮ」は、話題に登場する任意の対象を話者にとって親密な世界に取り込む作用をする。そのことによってその対象への親愛を表現したり、軽蔑を表現したりするのである。
  中本(1990)が
接尾の指小辞「グヮ」(小)は接頭敬称辞「ウフ」(大)と対極にあって、かわいらしさや親密さを表し、隔たりがないので飛翔となることがある。タンメ−グヮ(祖父)のように敬うべき語につくと卑称となる
と論述しているのがわかりやすい。
5 接尾辞「グヮ」を多用する意識世界
  話者が話題に登場するヒト、生物、モノなどを、「グヮ」を付けるべきものと「グヮ」を付けるべきではないもの二分したがるということは、「コ」を多用する東北方言話者とならんで琉球方言話者が、世界を
  1. 親愛な世界、自己と一体の世界
  2. 疎遠な世界、自己とは異質の世界
の二つの世界に線引きする傾向が強いということである。これは一種の情意的な世界認識である。東北方言話者と琉球方言話者にこの傾向が強いということは、作業仮説「方言周圏論」を想起させて興味深い。私は「グヮ」が軽蔑表現として用いられることがあるだけに、琉球方言話者のほうが東北方言話者よりもこの傾向が強いと考える。
  そこで接尾辞「グヮ」の多用が琉球方言話者のどのような意識構造と関係するのかという問題を考えてみたい。
  琉球方言話者の意識構造の特徴については、東江(1963)が「事大主義」と「閉鎖性」を挙げている。このうち閉鎖性とは自己と一体の世界から自己とは異質の世界を排除しようという態度であるから、接尾辞「グヮ」を多用する意識世界に何らかの関係を持っているのであろう。

  東江(1991)は、この問題を再び取り上げ、琉球列島の地理的条件と関連付けて次の四つの内容を琉球方言話者の特徴として整理した。
  1. 年間を通して生活の季節変化に乏しい。
  2. 共同体の連帯が強調され・・・人間関係が親密で、親戚付き合いが多い。
  3. 県民意識は全国一つよく、沖縄ー本土という対立のなかで日本を捉えようとする。
  4. 東南アジアの文化がそのまま受け入れられている。
  このうち2.は接尾辞「グヮ」による親密な対象の取り込みとかなり関係があると思われるが言語表現との関係を論ずるには十分ではない。
  沖縄の言語表現と沖縄県人の意識構造との関係の考察としては、内田直仁氏の「アガーミ意識」についての分析が参考となる。
  内田(1979)は「アガーミ意識」を「話し手が聞き手に、我と対立する他者として位置付けないで、我と同一視し、また一体感的意識でとらえてしまう意識である」と定義し、琉球方言話者の独特の意識ととらえた。

  琉球方言には「私たち」を意味する語が二つある。一つは「我達」から転じた「ワッター」であり、この語は聞き手を含まない。今ひとつは「吾が身」から転じた「アガミー」でこれは話者と聞き手を同時に含む「私たち」である。

  例えば、ある人が、私が行く場所に遅れて合流する、という場合、琉球方言話者は「あとでクルからね」という。あるいはスーパーのレジで店員が「レシートは必要か」というときに、「レシートモライますか」と尋ねてくる場合がある。このように話者が聞き手と一体化した意識で発話する意識を内間氏は「アガーミ意識」を呼んでいるわけである。

  内田氏は、このような「アガーミ意識の目」は「情意界に向けられており」「情意が四方八方に浸透して」いく世界をかたちづくるとしている。
  琉球方言話者が接尾辞「グヮ」を使用するときは、その前提として聞き手が話者と同一の世界にあるとの感じ方、つまり「アガーミ意識」があるようである。「グヮ」は「四方八方に浸透」する情意の、いわば触手として、任意の対象を話者と一体の世界に取り込んでいるのであろう。
  沖縄の若者たちの方言継承の現状はまこと危機的な状況にあるようだが、若者たちによる「グヮ」の使用頻度も衰微の一途をたどっているのであろう。「グヮ」の不使用は、一方では方言の衰退であるとともに、他方では、個人意識の増大であり、あるいは他者との一体感の喪失ということになる。
  昨今の沖縄の青少年の深刻な問題行動をみるとき、この問題が沖縄の貧困、家庭解体、地域の教育力の低下等々の問題であることはいうまでもないが、同時に「グヮ」の不使用に象徴される他者との一体感の喪失も問題ともするどく関わっているとの思いを深くした。

       参 考 文 献
  
  1. 伊波普猷 1935年 『おもろ落穂集 14』 伊波普猷全集第6巻
  2. 宮伊波普猷 1933年 『琉球人の命名法』 伊波普猷全集第4巻
  3. 宮良當壮 1942年 『日本語におけるクヮ〔kwa〕行音群について』 宮良當壮全集16
  4. 中田祝夫監修 1983年 『古語大辞典』 小学館
  5. 山浦玄嗣(はるつぐ) 2000年 『ケセン語大辞典』 無明舎出版
  6. 国立国語研究所 2001年 『沖縄語辞典』第9刷
  7. 中本正智 1990年 『日本列島言語史の研究』 大修館
  8. 内間直仁 1079年 『アガーミ意識とワッター意識』:『日本列島方言叢書29』 ゆまに書房 所載
  9. 東江平之 1963年 『沖縄人の意識構造の研究』
  10. 東江平之 1991年 『沖縄人の意識構造』 タイムス選書6