2003年7月25日 金曜日

レポート 「チムとククルについて」

今日は野原三義先生の琉球方言学概論のレポートの提出日である。昨夜そのレポートが完成した。 以下その提出予定のレポートである。

「ククル」と「チム」について
  民謡研究所で琉球民謡を教えてもらっているが、愛媛県人である私にとっては琉球方言の壁は厚い。新人賞コンクールの課題曲の一つである「安波節」の一番、
安波のマハンタや チムスガリどぅくる
宇久ぬ松下や ニナシどぅくる
 にしても「マハンタ」「チムスガリ」「ニナシ」がわからないために隔靴掻痒の歌唱になってしまうのである。
 この歌詞にでている「チム」は琉球民謡には頻出する語であるが、「かたみ節」の五番、
百歳(ヒャクセ)なるまでぃ 肝(チム)一(ひとぅ)ち
さー 変わるな 元(むとぅ)の心(ククル)
のように「肝(チム)」と「心(ククル)」という類義語が同時に出てくることになると、この2語の関係を知りたくなってくる。

  このレポートでは「肝(チム)」と「心(ククル)」の関係についてのいくつかの研究をたどり、私見も述べてみたい。

  仲宗根(1995)は『肝と心』という格好のタイトルの随想を書いているが、琉球では「心(ククル)」より「肝(チム)」が多用されていることを指摘し、「なぜ『心』が琉球ではそれほどつかわれずに、『肝』がこのようにいろいろの変化をするようになったか、語彙の面でも深く考えてみる必要がある問題であり、それにはいろいろな問題が含まれているに違いない」と問題提起するに止まっている。氏のこの問題についてのその後の研究については確認できていない。

  多喜間(2000)は、これまでの「チム」と「ククル」の意味分析の研究が、『沖縄語辞典』や『沖縄今帰仁方言辞典』などにみられるように、「チム」と「ククル」の意味の区別を明示するものではなく、「チム」の多用の指摘で終わっていたと述べた上で、この二つの語の意味分析を試みている。

  愛媛県人である私は両語の意味分析を内省的に確認することが不可能であるが、多喜間氏は両語の用例の比較作業の結果、次の三つの結論を得ている。
1.「ククル」は「精神」や新しい表現に使用される傾向をもつことがある。

   用例(○は成立、×は不成立)

   ア ○ククルー キタイル(心を鍛える)
   ア’×チムー キタイル
   イ ○キンガクヌ ククル(建学の心)
   イ’×キンガクヌ チム

2.「ククル」は「経験を積んで初めて会得する」との意義もある。

  用例

   ウ ○ガンジューナ カラタドゥ マサガヌ ククルー ヤドゥイ
     (健康な身体に健全な心が宿る)
   ウ’×ガンジューナ カラタドゥ マサガヌ チムー ヤドゥイ

3.「ククル」には「機嫌」という意味がない。

  用例

   エ ○シンシーガ チム トゥイ(先生の機嫌とり)
   エ’×シンシーガ ククル トゥイ
 多喜間氏はこれらの分析をもとに、「チム」の「ククル」の共通する意義として    
 「体に対して、理性、感情、意志などの内面の働きをすると見られるもの」
を抽出し、両者の相違内容として、「チム」が、「機嫌、すなわちその人の態度に現れる快・不快の感情」を示す一方、「ククル」はその意義を持たず、その代り「精神および経験を積んで初めて会得する事柄」との意義特徴を持ち、「チム」はこれをもたない、とまとめている。

 さて冒頭でとりあげた「かたみ節」の一節をここでもう一度掲げてみる。
百歳(ヒャクセ)なるまでぃ 肝(チム)一(ひとぅ)ち
さー 変わるな 元(むとぅ)の心(ククル)
 この歌では「肝(チム)」というものが、後にも先にも「ひとぅち」であること、そして、「心(ククル)」は「変わる」可能性があるので「元の心」のまま変わるな、と強調されているのであるが、多喜間氏の分析ではそのあたりが抽出されていない。

 琉球民謡に出てくる「肝(チム)」は、デカルトの二元論以前の、いまだ身体から切り離されていない心を思わすような根源性が感じられ、一方「心(ククル)」には「コロコロ」を語源とする説に与したくなるような可変性が感じられることが少なくない。先述のとおり私はネイティブ・スピーカーではないので自信を持って語ることができないがいくつかそのような例を挙げてみよう。
例1 安波ぬマハンタや 肝すがりどぅくる(「安波節」)

 『沖縄古語大辞典』によれば、「肝スガリドゥクル」は「気持ちのよいところ、ほどの意」とある。身も心も良い気持ちになる、との意と考えたい。

例2 ティンシャグヌ ハナヤ ツィミサツィニ スミティ ウヤヌ ユシグトゥヤ チムニ スミリ (「ティンシャグヌハナ」)

「チム」にとめられた「ウヤヌユシグトゥ」は一生を通じて根源的な教えとなって守り抜かれる印象が強い。

例3 昔事(むかしごぅとぅ)やしが 今までも(なままでん) 肝(ちむ)に 忘ららん むぬや あれが 情(なさ)き  (「ナークニー節」)

「あれが情き」が彼の人生の深いところで忘れられることなく生き続けているのである。

例4 曇(くむてぃ)て居(う)る心(くくる) あかあかとぅ 照(てぃ)らす 歌と三味線(サンシン)ぬ 情き知らな (新デンサー節)

 「心」は情況によって曇ったり、晴れたりするもののようである。

例5 月(ツィチ)や昔(んかし)から 変わること ないさめ(ネサメ) 変(かわ)て 行く もの(ムヌ)や 人ぬ 心(ククル)  (「琉歌」)

「心(ククル)」が変わるものであること、変わるところに本質があることが、明確に歌われている。

例6 静かなれそめれ 常に身が心 波立たぬ水どぅ 影やうつる (「琉歌」)

これも,油断すると心はすぐに「静か」さを失うというのである。
 実は多喜間(2000)は触れていないが、中本(1981)がそのあたりをすでに分析していたのである。

 中本氏は
   「チムクーヤー(肝喰)は肝(実際は胃)が喰われるように痛い肉体的苦しみを表す」
と述べているが、いかにも身体と精神の不離一体の状態にある苦しみであることが感じられる。また、
   「チムヤミー(肝病)は、後悔の意を表す」
との指摘も、この後悔がその後の生涯をかけた後悔である印象を与える。

 中本氏は「きむ」と「こころ」の意味内容を歴史的に確認した後、この二つの語の本質的な意義を次のように整理した。
「こころ」は人間に制御されている精神力を表し、「きむ」は自然界と直結する霊力を言う。
 「こころ」が「人間に制御されている」精神力であるということは、それが油断すれば変わってしまうものであるということであり、変わらないように努力することもできるということでもある。
 また「きむ」が「自然界と直結する霊力」というのも、「きむ」が人間のうわつらの精神活動とは異なる次元の営みであることを指摘しているのだと思う。
 
 このような分析によって「かたみ節」の例の一節も内容豊かに解釈できることになったのである。
 
  『沖縄語辞典』によれば、「肝変(チムカワ)イムン」が「凡人とは違った人」の意で、良い意味で使われるのに対して、「心変(ククルカワ)イ」は「心変わり・変心」と否定的な意味合いで使われるそうである。ここにも「肝」が一人一人の本質的な属性として扱われているの対し、「心」がその時々に変化し、その変化が否定的な変化でありやすいという事情が反映されているのであろう。

  なお、次のような場合、「心」も「肝」もともに用いられる。
例1 
○チム ベーサン(目覚め易い)
○ククル ベーサン

例2
○チム ガキ(心がけ)
○ククル ガキ

例3
○チム ウビ(心覚え)
○ククル ウビ
 これらの用例で「ククル」と「チム」とが共用される理由も考察したかったが、果たせなかった。

 私が琉球民謡を学ぶなかで疑問を抱いていた点が中本(1981)の考察を知ることによってある程度解決できたことはうれしいことであった。


参考文献
1 仲宗根政善 『琉球語の美しさ』 1995年 ロマン書房
2 多喜間三成 『琉球方言の意味論』 2000年 株式会社ルック
3 『沖縄古語大辞典』 角川書店
4 屋嘉宗克 『琉球文学 琉歌の民俗学的研究』 1995年 近代文藝社
5 中本正智 『図説琉球語辞典』 1981年 金鶏社
6 『沖縄語辞典』 国立国語研究所編