2002年11月26日 火曜日
 9・11と死者の差別

  ジャン=リュック・ゴダールという映画監督が11月22日付けの「週刊読書人」のインタビュー記事のなかで、9・11にどう関わるか、という質問に対して

 
「今年、(9・11)一周年の追悼式があったときに、ワールドトレードセンターでなくなった人たちの名前がすべて読み上げられたのに対して、飛行機の中で死んでいった人間の名前に言及されることはありませんでした。その点に関して、映画作家として関わっていくことが、映画の一つの使命ではないかと思っています」

  と答えている。

 対談はこのあと質問者によって別の話題に移ってしまったので、ゴダール監督がこのことをどう捉えているのかは知ることができなかったが、これが事実とすれば(きっと事実であろう)その政治的な意味は深刻なものである。

 アメリカ政府から見て、ワールドトレードセンター(WTC)ビルでの死者はあの飛行機の中の死者とあいだには本質的な違いがあるのであろう。

 飛行機の中の死者は、運悪くたまたまこの飛行機の乗客となったがために死者となった。友人の結婚式に出るために乗った人、ビジネスのために乗った人、入院した母親を見舞うために乗った人、この飛行機を利用した理由はさまざまである。さまざまな死ではあるが、偶然の死である点は共通している。これらの人々は、次の便あるいは翌日の便を利用したなら死者とはならなかった点をみても偶然の死であったといえよう。

 WTCビルでの死者は、彼らがアメリカ経済の中枢を担うものであるからこそ反米テロリストの犠牲になった人たちである。これらの人々は飛行機の死者とは違い、この攻撃が翌日あったとしても、一ヵ月後にあったとしてもやはり死者となったであろう。そういう意味で必然の死であった。

 偶然の死は避けられなければならないが、必然の死は意味付けられなければならない。そして、これらの死は、アメリカ政府が現在世界規模で展開している侵略戦争準備の正当性を証明するものとして意味付けられている。これが、追悼式でWTCの死者の名のみが読み上げられた理由なのではないか。

 振り返って日本を眺めると、同じ死者の名の読み上げ作業が靖国神社において執拗に続けられている。将兵の死と市民の死を峻別する靖国の論理もまた「必然の死」と「偶然の死」との区別と差別に他ならず、新しい「必然の死」の予告なのである。