2002年10月16日 水曜日
400年前の拉致事件生存者返還

秀吉の朝鮮侵略の後の修好関係樹立の際の朝鮮側の最大の要求は、秀吉軍が、労働力確保、先進技術や学芸の移入、奴隷売買(これが一番多かった)のために日本へさらっていった10万人内外の朝鮮人の全員返還であった。下の表のように日本軍の朝鮮撤兵から通信使外交が始まるまでに33年の年月がかかっているが、日本側その間修好回復の環境作りのために、7千数百人の拉致被害者を帰還させている。それでも、帰国できたのは拉致被害者の10分の1にも満たず、帰国できなかったものの大半は戦国武将によって「鉄砲と絹織物」と交換でポルトガルの奴隷船に売り飛ばされたのであった。

 今日の朝鮮(DPRK)の拉致問題を考えるとき、この事実に対する配慮を忘れないようにしなければならないと思う。こんなときこそ忘れてはならないことがあるのだ。

 以下ソウル大学名誉教授李元淳(イウォンスン)先生の著書『韓国から見た日本の歴史教育』(青木書店)をもとにまとめてみた。

  • 1598年
    日本軍、朝鮮から撤兵
  • 1599年6月
    対馬藩主が国交再開のために俘虜1名を朝鮮に帰国させ、和議成立後の朝鮮人俘虜を約束する。

  • 1600年2月
    小西行長、寺沢正成、対馬藩主らが朝鮮に修好再開を申し入れ、対馬や九州柳川に拉致されていた朝鮮人男女俘虜160人を帰国させた。

  • 1600年4月
    対馬藩主は、朝鮮人男女俘虜約300人(累計約460人)を帰国させ和議を要望した。このとき朝鮮政府は、俘虜全員を送還すれば修好に応ずると回答した。

  • 1600年6月
    伊予大洲城藤堂高虎によって日本へ拉致された儒学者姜ロ(カンハン)が帰還し、秀吉没後の日本に朝鮮再侵略はありえないことを知らせた。俘虜になっていた他の官僚や儒者からも同様の分析が上申された。

  • 1600年8月
    朝鮮政府が使節を対馬に派遣し修好問題を議論させた。この一行は翌年、徳川秀忠と会談し、帰路朝鮮人俘虜3000余人(累計3460人)を帯同した。

  • 1600年9月
    徳川家康が関が原の決戦で勝利し、朝鮮侵略に関係のない者という触れ込みで、修好交渉に乗り出した。

  • 1605年
    対馬藩主、対馬藩人の釜山交易許可に感謝して俘虜1390人(累計4850人)を帰国させた。

  • 1606年
    対馬藩主、修好の回復を促しながら俘虜120余人(累計4970人)を帰国させた。
  • 1606年
    『朝鮮王朝実録』によると日本から帰還できた朝鮮人は累計5720人
  • 1607年
    朝鮮王国が対日修好使節を派遣。使節派遣の目的は国交の回復と朝鮮人俘虜の返還であった。使節は帰国を希望する俘虜を募集し、男女1240余人(『朝鮮王朝実録』の数字を使って累計6960人)を帰還させた。
  • 1609年
    その後の日本側の俘虜返還事業は不誠実で、かつ俘虜の理解も不足しており、返還事業は壁にぶつかった。そこで朝鮮政府は当選を訪れた日本使節に俘虜全員の返還を強力に要求した。対馬藩主は新しい協定で朝鮮貿易における対馬の地位が大幅に改善されたので、その後機会あるごとに数名から数十名ずつ俘虜を返還してきた。
  • 1624年
    朝鮮政府は俘虜返還を求めて再度使節を日本に派遣したが、321人(前項を100名とみて累計7381人)の帰国を実現したにとどまった。
  • 1631年
    日本と朝鮮の間に通信使外交による友好関係が始める。