2002年 9月 17日 火曜日

不明を恥じつつ


 歴史的な日朝首脳会談がついに実現した。両首脳ともに終始不機嫌そうな顔であったが、結局、来月10月から国交樹立のための協議を再開することが確認された。ともかくもよろこばしい。
 日本と大韓民国の国交樹立には13年4ヵ月(51年10月〜65年2月)の月日を要したが今回はどうなるだろうか。迅速な進捗を期待したい。

 日朝の国交樹立が成立しなかった根本原因は、日本政府の側にある。日本政府がアメリカに追従して朝鮮政府を無視する政策を取って来たからである。日本政府は日韓協定によって朝鮮政府を非合法機関と認定したのである。このような認識を持つ限り国交樹立への取り組みがないがしろにされるのは当然であろう。

 その日本の首相が朝鮮に乗りこんで国交樹立の確約をかわしたのであるから、昨年以来の外務省と首相の精力的な外交努力は高く評価されるべきであろう。まさに戦後史の一つの画期である。

 日朝の国交樹立の事業にはもう一つの障害が生じていた。1977年から1983年にかけて頻発した朝鮮政府による日本人誘拐事件がそれである。

 日本政府の戦後外交史の後半はこの誘拐事件によって前半とは違った難しさが加わった。家族や支援者の奮闘で朝鮮民主主義人民共和国の機関による誘拐事件を糾弾する声が高まるにつれて、朝鮮(DPRK)との国交樹立に反対する勢力が力を持ってきたからである。

(#1977年という年は、たまたま、日本が外交権を回復した1951年と、今年2002年のちょうど中間の年にあたる。当時は金日成主席の時代である。--金日成死去は1994年--)

 誘拐事件は一般に拉致疑惑と呼ばれてきたが、「まず拉致疑惑の解決、その後国交樹立」という実現不可能な主張と、「まず国交樹立、その後拉致疑惑の全面解決」(忘暮楼もこれに与した)という口先だけの主張と「拉致疑惑は朝鮮(DPRK)に敵対する勢力ののでっち上げだ」という主張(忘暮楼は最初この主張だった)がぶつかった。いずれも事態の解決にはならなかった。そんな葛藤が「日朝国交樹立」という政治課題を「日朝国交正常化」とあいまいに呼ばせるようになったのかもしれない。

#そもそも「正常化」とは「異常」があるときに言う言葉である。日朝には「異常な外交」があったのではなく「外交そのものがなかった」のであるから「正常化」はなじまない。やはり「国交樹立」とすべきである。

 しかし、金正日国防委員長があきらかにした被誘拐者たちの安否報告は悲惨なものであった。金正日国防委員長は日本側が調査を依頼した8件11人のすべてとほか2名について誘拐の事実を認め、しかもその7割以上にあたる8人がすでに死亡していると伝えたのである(恥も外聞も投げ捨てて!)。

 私は日本政府の上げた11人のすべてが朝鮮(DPRK)政府機関による誘拐の被害者であるとは信じられなかった。『宿命』などの情報によって、少なからぬ人々が朝鮮(DPRK)の機関によって誘拐されたという認識はもっていたので、私のホームページからも「拉致」関連のサイトへのリンクを張っているのだが、横田めぐみさんについては別件ではないかと考えていた。

 ところが、金委員長は横田さん誘拐も事実を認め、さらに彼女がすでに死亡していることをつたえたのである。私は私の不明を恥じる。横田さんの家族や支援者の必死の努力を白眼視したことを恥じる。まずはこの場を借りて謝罪したい。今後の取り組みについてはもう少し考えてみたい。

 それにしても、思えば私の学生時代(1961年〜1966年)の大半は日韓会談反対闘争の時期だった。私もよくデモに参加したが、朝鮮(DPRK)敵視の外交姿勢に対する危惧が日韓会談に反対する主な動機だった。その当時から数えても40年の歳月が流れた。ここになんとか朝鮮(DPRK)敵視政策から脱皮する可能性が生まれたことは心底うれしいことだ。