2002年 8月 14日 水曜日

天皇の聖断と私たちの毎日


 1945年8月初旬。8月6日、9日の広島・長崎にたいする原爆攻撃、9日のソ連参戦と、戦況は破滅的終焉を予想させる状況に突入した。

 これをうけて開かれた、 8月9日から10日未明にかけての御前会議では、出席者の半数はポツダム宣言受諾による終戦に賛成したが、陸軍を中心とする残りの半数がポツダム宣言拒否、本土決戦による天皇制護持を主張し、賛否同数の膠着状態だった。

 57年前の今日8月14日、天皇はポツダム宣言が天皇と大日本帝国に提示した戦争終結条件の履行契約による事態収拾を決心したのである。ポツダム宣言が提示した戦争終結の条件は大略次のようなものだった。

 
  • (1)軍国主義の除去、
  • (2)日本国領土の占領、
  • (3)カイロ宣言の条項の履行、および本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限、
  • (4)日本国軍隊の完全な武装解除、
  • (5)戦争犯罪人に対する厳重な処罰、ならびに民主主義の確立、
  • (6)賠償の実施と平和産業の確保。
またこの宣言は、以上の諸目的が達成され、日本国民の自由に表明された意思に従って平和的な傾向をもった責任ある政府が樹立された場合には、ただちに占領軍を撤収することを明らかにしている(12項)。

この項、『日本大百科全書』(小学館)による。

天皇はこれらの条件を丸呑みすることによって、大日本帝国の全面的壊滅を避ける道を選んだのである。実際、ドイツは連合軍の総攻撃によって完全な廃墟と化していた。

 天皇は、ポツダム宣言が天皇制の存続・廃止について言及していない点に天皇制存続の現実性を見た。これが宣言受諾の根拠である。「終戦の詔勅」のなかには「朕茲に国体を護持し得て…」とその安堵を正直に述べている。

天皇は翌8月15日、ラジオを通じて「終戦の詔勅」を読み上げた(忘暮楼の現代語訳で示す)。

「私は世界の大勢と大日本帝国の現状を深く考え、非常の措置でもって時局を収拾させようと決心したので、おまえたち忠良な臣民にそれを告げる。

私は大日本帝国政府に米英中ソ四ヶ国に対してその共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨通告させた。」

「大日本帝国陸海軍将兵はそれぞれに最善をを尽くしてくれているが、戦局は好転せず、世界の大勢も我が方に不利である。」「米国は原子爆弾を使用して罪なき臣民を殺傷し、惨害をもたらしている。

交戦を続けるならば、最後にはわが日本民族の滅亡を招くことになる。」「そのようなことになっては天照大神をはじめ神武天皇以来のご先祖に申し訳がたたない。」「これがポツダム宣言受諾の理由である。」

「私は東アジアの解放に協力してくれた同盟諸国に遺憾の意を表する。」
「私は戦没者や殉職者、その遺族、戦傷者や被災者の厚生に心をかけている。」

「大日本帝国がこれから受ける苦難は尋常なものではないであろう。」
「またおまえたち臣民の真心もよく理解している。」
「しかし、私は忍び難きを忍んで将来のために太平の世を開きたい。」

「私は天皇制を守りぬくことができたので、おまえたち臣民のまごころを信じて、常に御前たちとともにあるのだから、軽挙妄動は厳に慎まなければならない。」

「神州の不滅を信じ粘り強く将来の建設に当たり、国体の精華を発揚し世界に遅れをとらないようにしなければならない。」

 読んでみれば分かるように、天皇はこのラジオ放送で、「ポツダム宣言」によって日本がどう変わるのかについてなにも述べていない。ただ「国体は護持できた」「太平の世を開く」というばかりである。 「軍国主義の除去」についても、「日本国領土の占領」についても、「カイロ宣言の条項の履行」についても、「本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限」についても、「日本国軍隊の完全な武装解除」についても、くどいようだが、「戦争犯罪人に対する厳重な処罰」についても、「民主主義の確立」についても、「賠償の実施と平和産業の確保」についても、一切触れていない。。

「降伏」の文字すらなく、「神州の不滅」も「国体の精華」も陰りを見せてはいない。かえってあたかも他日の神州復活を期すおもむきである。。

しかし、天皇がラジオ放送でそれに触れようが触れまいが、天皇の「ポツダム宣言」受諾への決心=「聖断」は、日本の大変革の扉を開く国際的な契約であったのである。その契約があったからこそ、戦争終結が実現したのである。この契約を結ばなかったならば、連合軍の圧倒的な攻撃による本土全体の壊滅は確実だった。

 我々の今日の政治と生活は、この「聖断」がもたらした大変革、つまり「ポツダム宣言」がもたらした大変革の成果に満ち満ちている。新憲法の生みの親は「聖断」である。日本領土が現在のように縮小したのも「聖断」の結果である。だから、韓国(DRK)と朝鮮(DPRK)の人々が「8・15民族統一大会」を開くようになった原因も「聖断」である。徴兵制がなくなったのも「聖断」の結果である。女性に普通選挙権が与えられたのも「聖断」の結果である。靖国神社の国家護持を停止したのも「聖断」である。

 「日本民族の滅亡」を選ぶか、今日の政治制度を選ぶか、当時の視点でみるならば二つに一つであったのである。大日本帝国憲法のままで、日本民族の滅亡を回避する道は残されていなかったのである。天皇と大日本帝国の無謀な戦争政策が日本をそこまで追い込んでしまっていたのである。

 ところが、戦後の民主主義については二つのストーリーがある。今日わが国の民主陣営は戦後の民主主義は国民が実現したものだと考えたいし、復古陣営は戦後民主主義はアメリカの押し付けと考えたいのである。そこで日本の民主陣営も復古陣営も「聖断」の評価を曖昧にしている。というかアンタッチャブルなものにしている。両者の主張が噛み合わないのもこのあたりに一因があるような気がするのだがどうだろうか。