2002年 5月 23日 木曜日

「沖縄を返せ」(作詞・作曲荒木栄)の問題


 私が東京で学生生活を送ったのは1961〜65年の5年間だった。1960年にはすでに沖縄祖国復帰協議会結成されており、本土でもこれに呼応して沖縄返還運動が盛んだった。

 しかし、当時の本土の学生のほとんどは、アメリカの占領下にある沖縄の実情を知らなかったし、、敗戦まで沖縄という県があったことも知らなかった。ましてや、1879(人は泣く)年に明治新政府が、琉球王国を無理やり「沖縄県」として日本帝国に封じ込めた「琉球処分」など誰も知らなかった。

 そんな状況ではあったが、学生の中でも次第に沖縄への関心が高まり、米軍基地や国会周辺でのデモのシュプレヒコールにも「沖縄を返せ!」が繰り返されるようになった。そんなときに歌われたのが「沖縄を返せ」(作詞・作曲荒木栄)であった。

 
固き土を破りて
民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が血と汗をもて
守り育てた沖縄よ
われらは叫ぶ 沖縄よ
われらのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

 当時私たちはこの歌を毎日のように歌った。そして、この歌こそ沖縄の人々と本土の我々とを繋ぐ連帯の歌だと感じていた。

 ところが、例えば沖縄人と本土人がスクラムを組んで声を合わせてこの歌を歌うとき、沖縄人は本土人と決して「一心同体」にはなれなかったのだという。この事実は今日の今日まで知らなかった。松村洋さんの『唄に聴く沖縄』(白水社2002年5月15日)の次の記述でそれを知ったのであった。

 
もともと運動のなかで物議を醸した唄だった。ウチナーンチュとヤマトンチュが一緒にこの唄をうたうと、ヤマトンチュは「我らと我らの祖先が守り育てた沖縄よ」というあたりに違和感を持ってしまう。一方ウチナーンチュは、ヤマトンチュに「我らのものだ沖縄は」といわれると違和感をもってしまう。
 言うまでもなく、沖縄はもともとヤマトのものではなかったのだぞという思いが、沖縄人にはあるからだ。

実際、この歌の「沖縄」を「朝鮮」に置き換えると、なんと、日本人が朝鮮を植民地として支配したことを当然視し、本来日本ものである鉄道や港湾施設、ダムや灌漑施設など日本人が朝鮮に投入した資産は今日の韓国・朝鮮の利益になっていることを感謝すべきだ、と主張する反動人士の本音の歌に変身してしまう。ここにこの歌の不思議な構造がある。

固き土を破りて民族の怒りに燃える島 朝鮮よ
我らと我らの祖先が血と汗を持て守り育てた朝鮮よ
我らは叫ぶ 朝鮮は我らのものだ 朝鮮は
朝鮮を返せ 朝鮮を返せ

 唄者・大工哲弘さんははこの『沖縄を返せ』をレパートリーに入れている方だそうだが、最後の部分を

 
沖縄返せ 沖縄返せ
と歌っているそうだ。一つの解決である。