2002年 3月 19日 火曜日

屋嘉節 その2


 燈台下暗し、というが本当にその通りであった。『屋嘉節』が捕虜収容所で作られたことが分かって歌詞の意味もあらかた理解できた。それで満足していたのだが、ふと我が家の書庫に2巻本『沖縄の慟哭』(1981(昭和56)年 那覇市刊)があることを思い出した。あれに何かあるかもしれない、と思って書庫の奥から引っ張り出した。

 するとなんとこの本の戦後篇第T章が「収容所生活」となっている。しかもその第1節に「屋嘉捕虜収容所」が置かれていたのである。ここには、山田有昂さんの「屋嘉捕虜収容所」と山城朝健さんの「屋嘉捕虜収容所のころ」の2編の体験記が収められている。そのうち山田さんは屋嘉捕虜収容所沖縄隊第2隊長を務めていた方で、『屋嘉節』の成立にも深くかかわった方でもあった。山田さんの体験をまとめておこう。

1943(昭和18)年11月召集を受けて沖縄中城湾要塞司令部に入隊  
1944(昭和19)年12月荒天をついて伊江島に移駐、伊江島飛行場の守備にあたる
1945(昭和20)年1月伊江島に最初の本格的な空襲、島は米艦船に取り囲まれ艦砲射撃、空襲激しくなる
同年4月1日米軍沖縄本島に上陸、4月16日早朝伊江島に上陸
同年4月21日伊江島の皇軍全滅、1ヶ月の逃避行、何度かの脱出失敗の後9人で投降  米兵に会った山田さんは知っているだけの英単語を並べてなんとか投降の意思を伝えた
同年5月21日同島西崎部落の近くの収容所に連行され、住民とは別の場所で米軍捕虜(PW=Prisoner of War)として収容された(総員43名)
同年5月24日伊江島の住人が全員慶良間(渡嘉敷島)へ強制移住させられるのを目撃した 。約3000人の住民が巨大なLST(戦車運搬艦艇)船首の口に呑み込まれて行った。
続いて、PWたちもLSTで伊江島から本島の収容所に入れられた。700人くらいの捕虜が収容されていたが、米兵はジャップ(沖縄以外の日本人)とオキナワン(沖縄県人)と朝鮮人が別々の幕舎に収容されていた。
同年6月10日ころ 収容者が増えたのでオキナワンのPW180名がハワイへ送られた。
さらに収容者が増えたのでトラックで屋嘉部落の収容所(設営中)に移された。屋嘉部落は全部ブルトーザーで敷きならされ砂原になっていた。移動した日はテント張りもせず砂の上に寝た。南部戦線からどんどんと捕虜が送られてきた。
同年6月。収容された捕虜がますます増えてオキナワンだけで1600人を超え、6月27日オキナワン1500名がハワイに送られた。 同年7月 オキナワン1600名がハワイに移送される
(渡口武彦-戦時中NHK沖縄放送局勤務-さんの手記から)
7月のある日、屋鹿収容所の数百名の捕虜が突然トラックに乗せられ嘉手納の海岸に連れて行かれた。沖の船に着くと服を脱がされ海水でシャワーを浴びさせられ、丸裸のまま約15メートル下の船倉に入れられた。その日から1日二度水と食パン一切れと牛肉とジャガイモを煮たものと与えられた。船倉の片隅のカンカンで糞尿をした。三日に1度の割でデッキに上げタバコを1本与え海風に当たらせた。みんな裸のままである。途中グァムを経て3週間目にハワイの真珠湾に着いた。
同年7月中旬以降 収容所がほぼ完成。
「もとの屋嘉部落全体が敷きならされて平坦な砂浜になり、そこを二重の有刺鉄線で囲み、その間に丸く巻かれた有刺鉄線が幾重にも置かれて逃げられないようにしてあり、周囲には監視所の櫓が6、7ヵ所設けられていた。夜になればサーチライトが輝き、四六時監視は厳重であった。
同年9月 金城守堅さんが『PW無情(屋嘉節)』の詞を書いて山田有昂さんに添削を頼みに来た。新城朝保さんと3人で話し合って歌詞を作り上げた(別項)
同年10月中旬 捕虜の解放が始まる。11月17日までにはハワイ移送組を含めてほとんど解放された。