2002年 3月 13日 水曜日

思惑・見惑


 「思惑」が漢字の読みの問題でだされると「おもわく」と答えなければならないのが常であるが、この語は元来仏教用語で、その場合は「しわく」と読むのが正しい。広辞苑の説明は次の通り。

 
しわく【思惑】(仏)世間の事物に対しておこす貪(とん=むさぼり)・瞋(しん=怒り)・痴(ち=無知)などの迷い。三道のうち修道(しゅどう=実地の修行)において断ぜられる。思想的な迷いである見惑に対し、より深い情的な迷いで対治が困難。
 要は忘暮楼などが毎日体験している「もっと酒を飲みたい」といった迷いを「思惑」といい、これは深い情的な迷いであるからなかなかナオランぞ、いうのである。当たっている(+_+) 。

 閑話休題。これを逆にいうと、思想的な迷いである見惑(けんわく)は対治がたやすいということになる。朝鮮(DPRK)政府が原料収集するがごとく外国人を拉致するのも、見惑対治についての自信があるからである。人間の考え方なんか、教育でどうとでもなる、とにかく引っ張って来い、というのである。この意味で、チュチェ思想による立国という国家路線と工作員養成のための外国人拉致政策は全く同根というべきなのかもしれない。

 ただ退いて考えると、政治というものの主眼はつねに、国民の考え方を変えるところにある。国民の考え方を変えることによって為政者に有利な国家経済を可能にしようとするのである。ブッシュ大統領の「テロ撲滅」、小泉首相の「改革なくして成長なし」、鈴木宗夫議員の「北方領土返還」、みなそうである。したがって「見惑」を云々して朝鮮(DPRK)を非難するのは実は公平とはいえないのであった。