2002年 2月 20日 水曜日

扶桑社版「新しい歴史教科書」とコリア 3

  • この文脈で「日本固有の文化」を理解させられるだろうか


第3節 律令国家の成立

8 聖徳太子の新政

聖徳太子の外交
 当時、まだ日本という国号は生まれていなかったが、6世紀末の東アジア情勢の急変によって、日本人は国家意識を少しずつ高めていった。しかし国内には、いまだ国家機構そのものがしっかり整備されていなかった。法も、官僚制度も、政治哲学も、高度な宗教も、すべては大陸の文明にあおがなくてはならない状態だった。とはいえ、新たにおこった隋に朝貢し、服従する外交はやりたくない。かつて倭の五王が朝貢していたころは、強大な高句麗に対抗するために中国王朝と結ぶ必要もあったが、今や高句麗は脅威ではなかった。この時期をたくみにつかんだのが、聖徳太子である。

 太子は593年、女帝である推古天皇の摂政となり、それまでの朝鮮外交から、大陸外交への方針転換を試みた。朝鮮を経由せずに大陸の文明を取り入れることも大切で、太子は、607年、小野妹子を代表とする遣随使を派遣した。しかし、日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うような道はさけたかった。

 そこで、太子の隋あての国司には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る国の天子が、日が沈む国の天子にあてて書簡を送る。ご無事に御過ごしか)と書かれた。遣隋使は隋からみれば朝貢使であるが、太子は国書の文面で台頭を強調する事で、隋には決して服属はしないという決意表明を行ったのだった。隋の皇帝煬帝は激怒したが、高句麗との抗争中なので忍耐した。

聖徳太子の政治