2002年 2月 19日 火曜日

扶桑社版「新しい歴史教科書」とコリア 2


  • 気になったこと
  • 「…と考えられる」程度の事をわざわざ書く必要はないのではないか
  • 「半島」をこどもの常用語にするつもりかなあ
  • 「文化は高きより低きに流れる」は八紘一宇の記述への布石か
  • 高句麗の南下政策はいうが、日本の北上政策には触れないのはジコチュー
  • 戦争が文化交流をすすめるだって?!
  • 「考えられない変化」?


 

第2節 古代国家の形成

5 東アジアの中の日本
中国の史書に書かれた日本
6 古墳の広まりと大和朝廷
巨大な古墳と大和朝廷
進む国内の統一
 ちょうどこのころ、中国は内乱で勢力が弱まっていた。その間に、朝鮮半島の北部では高句麗が強国となり、南部では百済や新羅が台頭した。
Column 神武天皇の東征伝承
7 大和朝廷の外交政策
朝鮮半島の動きと日本
 古代の朝鮮半島日本列島の動向は、中国大陸の政治の動き一つで大きく左右された。220年に漢がほろびてから、589年に隋が中国を統一するまでの約370年間、中国は小国が並び立つ状態で、朝鮮半島におよぼす政治的影響力がいくらか弱まった。

 急速に強大になった高句麗は、313年に、このころ中国領土だった楽浪郡(現在の 平壤「ピョンヤン付近を中心とした地域」)を攻め滅ぼした。中国を中心とした東アジア諸民族の秩序にはゆるみが生じ、大和朝廷もこれに対応して、半島への活発な動きを示した。

 高句麗は、半島南部の新羅や百済を圧迫していた。百済は大和朝廷に救援をあおいだ。日本列島の人々は、もともと鉄資源を求めて、朝鮮半島南部と交流をもっていた。そこで、四世紀後半、大和朝廷は海を渡って朝鮮に出兵した。大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる

朝貢
 高句麗は南下政策をとった。海を渡った大和朝廷の軍勢は、百済や新羅を助けて、高句麗とはげしく戦った。414年に建てられた高句麗の広開土王(好太王)の碑文に、4世紀末から5世紀はじめの出来事として、このことが記されている。

 高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落し、半島南部を席捲した。しかし、百済と任那を地盤とした日本軍の抵抗にあって、征服は果せなかった。

 5世紀中ごろ、中国では南に宋、着たに北魏が建国し、いわゆる南北朝時代を迎えた。東アジアでは、強国にその周りの国々が貢ぎ物を捧げて(朝貢)、臣下の国になることをちかう外交が行なわれていた。大和朝廷と百済は、中国の南朝に朝貢した。5世紀を通じて10回近く、「倭の五王」が宋に使者を送った。他方、高句麗は北魏に朝貢し、同盟関係にあった。大和朝廷と百済があえて宋の朝貢国になったのは、宋の力を借りて高句麗を牽制するためであった。しかし、高句麗と北魏は陸続きであったのにたいし、宋、百済、倭の三国は海をへだてていた。そのため、不利な同盟関係であった。大和朝廷の半島政策は、しだいに不振におちいり、行き詰まった。

技術の伝来と氏姓制度
中国は、紀元前の段階ですでに、文字、哲学、法、官僚組織、高度な宗教などを十分に身につけた古代帝国時代を経過していた。文化は高きから低きに流れるのを常とする。朝鮮半島を通じて、中国の文化は日本に流入した。戦争などで百済との交流がさかんになるにつて、人の往来もひんぱんになった。

 おもに5世紀以降、大陸や半島から技術をもった人々が一族や集団で移り住んだ。彼等は、土木・金属加工・高級な絹織物・高温で焼いたかたい土器(須恵器)づくりなどを、日本列島の人々に伝えた。鉄の農具や武器も、大量に作られるようになった。同じころ、漢字使用もようやく定着し、儒教も伝来した。漢字漢文を書くことに未熟な列島人に、外からきた人が指導し、外交文書や朝廷の記録の作成を手伝った。技術や文化を伝えたこれらの人々は、帰化人(渡来人)と呼ばれる。大和朝廷は、彼らをおもに近畿地方に住まわせ、政権につかえさせた。

 大和朝廷の頂点に立つ人は大王とよばれ、まだ天皇の呼び名はなかった。地方の豪族は同じ血縁を中心にした氏という集団をつくり、大王から臣や連といった姓を与えられ、氏ごとに決まった仕事を受けもった。これを氏姓制度という。有力な帰化人は、こうした制度の中に組み込まれていった。

中華秩序と朝貢

中華秩序とは、近代以前の中国中心の国際秩序のこと。中国の皇帝が周辺諸国の王に照合などを授け臣下とする。臣下とされた国は、定期的に使者や貢ぎ物を送り(朝貢)、臣従の例をとる。
 日本は、古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やべとなむなどと比較し、独立した立場を貫いた。
大和朝廷の自信
 6世紀になると、半島の政治情勢に変かが生じた。あれほど武威をほこっていた高句麗が衰退し始め、支援国の北魏も凋落に向かった。かわりに、新羅と百済の国力が増大した。任那は両国から圧迫された・高句麗が強大であった時代には考えられない情勢の変化だった。任那は、新羅から攻略され、百済からは領土の一部の割譲を求められた。

 しかし、百済と大和朝廷の連携だけは続いた。新羅・高句麗が連合して、百済を脅かしていた時代だったからである。538年(一説には552年)に、百済の聖明王は、仏像と経典を日本に献上した。百済からは、助けを求める使者が列島にあいついでやってきた・しかし、562年、任那は滅んで新羅領となった。

 ところが、570年以降になると、東アジア一帯に、それまで諸国の動きからは考えられない新しい事態がが生じた。高句麗が突然、大和朝廷に接近し、引き続いて、新羅と百済が日本に朝貢した。三国が互いに牽制しあった結果だった。その後さらに、589年に中国大陸で隋が統一を果した。これが新たな脅威となって、三国はより日本に接近した。任那から撤退し、半島政策に失敗した大和朝廷だが、こうして再び自身を取り戻したと考えられる

釈迦と仏教

---

Column 出土品から歴史をたどる

---

Column

日本武尊と弟橘姫--国内統一に献身した勇者の物語
---