2002年 1月13日 日曜日

共和党


この間の目くるめく政党の離合集散のおかげで政党の名前も世に知られているものはあらかた出尽くした感があるが、アメリカにあって日本になく、これからも出そうもないのが、「共和党」である。

 民主社会党の基本政策には「君主」とか「天皇」とかについての記述がない。ということは共和制への移行は念頭にないということだろうから「共和党」への党名変更はもとめられそうもない。

 共産党(JCP)は「民主共和国」への転換をはっきりと掲げている政党であるから「共和党」と名乗ってもよさそうだが、明治の翻訳家に義理立てして?、いまだに「共に」「(幸せを)産む」などと駄じゃれで説明しなければならないむつかしい党名を守りつづけている。

 もっとも現在では「共産党」より「共和党」のほうが嫌われるのかもしれない。「共産党」なら「君主制廃止は当面の課題ではない」ととりあえずお茶を濁すことも出来ようが、「共和党」では逃げようがないからだ。

 いまから100年ほど前に帝国議会で時の文部大臣が<もし日本に共和政治が実現するならば云々>と演説しただけで内閣が崩壊したことがある(「共和演説事件」下に資料)。そのころと今とでいかほどの差があるのだろう。死ぬまでに共和党の出現にめぐり合えるものだろうか。

 

共和演説事件 きょうわえんぜつじけん

第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣(隈板(わいはん)内閣)の文相尾崎行雄の演説が問題化し、内閣瓦解(がかい)の発端となった事件。尾崎文相が1898年(明治31)8月21日帝国教育会での演説で、当時の金権万能主義の風潮を批判し、もし日本に共和政治が実現するとすれば三井、三菱(みつびし)が大統領候補となるであろうとの発言が問題化した。まず、宮中方面から批判の声があがり、政党内閣に批判的な枢密院、貴族院に非難の声は広がり、さらに与党憲政党内の旧自由党派の実力者星亨(ほしとおる)が駐米公使を辞任して帰国していたが、陸相桂(かつら)太郎らとひそかに連携して尾崎排除をもくろみ、新聞論調も尾崎攻撃を開始した。尾崎は10月24日天皇の信任も失い辞任を余儀なくされた。しかし、その後任をめぐって旧進歩・自由党両派の対立は深刻化し、妥協点をみいだすことができないため、大隈首相は独断で進歩派から犬養毅(いぬかいつよし)を推した。これに対し就任式当日の10月27日、内相板垣退助(たいすけ)が反対意見を上奏、翌日板垣ら自由派三大臣が辞任、さらに与党憲政党も分裂し、内閣は31日崩壊した。〈宇野俊一・日本大百科全書〉


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