2010年8月7日 土曜日


2010年8月7日

5;10~6;40 散歩。今朝は朝焼けが見とれるほどきれいだった。大池の横でコジュケイが3羽ほど道を横切った。オスがいなかったような気がする。しばらく歩くとまた違う所でコジュケイがチョットコイチョットコイと鳴いている。
 両足のシビレがだいぶ楽になっている。

7;30 朝食

9:00~10:10 昨日の日記を書く。

昼前、妻が日本コリア協会・愛媛の会議に出てくれる。

12:30 昼食

13:30~14;45 

14:45 洗濯物を入れる。雨が降りそうだ。

15:00~16:30 

日本コリア協会・愛媛新聞に載せていた「宇和島市吉田町日蓮宗一乗寺に埋葬されている片山嘉一郎氏についての報告」を探しだし、その一部を後備歩兵独立第十九大隊の文章に入れる。

ーーー本日の日記は以下略ーーー




ここで、日本コリア協会愛媛・新聞2009年11月号の載った文章をここへ写しておきます。作業上の都合です。


宇和島市吉田町日蓮宗一乗寺に埋葬されている片山嘉一郎氏についての報告
 
尾上 守 

今年、9月24日、時間があったので宇和島市吉田町の一乗寺へ行ってきました。東学農民革命軍との戦いで戦死し兵士片山嘉一郎さんの墓を見に行ったのです。
 これまで二回訪れているのですが、墓碑銘をちゃんと読んで記録する作業をしていなかったのでそれをしようと思い立ったのでした。以下このときの調査結果を報告します。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

1894(明治27)年十月末、韓国の日本軍兵站支部の一つに洛東支部というのがあった。洛東支部は、洛東江の上流にある現在の尚州市の南東端にある洛東に設置され、日本軍の軍事活動を支える兵站活動に従事していた。吉田町出身の兵、片山嘉一郎はここ洛東支部に所属する兵士であったが、明治27年10月末に東学農民革命軍の活動を制止するため忠清道へ派遣され、東学農民革命軍との戦闘で戦死した。片山嘉一郎の墓は、宇和島市吉田町の一乗寺の墓地の入り口に立てられたが古谷直康氏らの発見以後現在の墓地に移されたようである。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

一乗寺の片山嘉一郎の墓標には次のように刻まれている。

○正面
陸軍歩兵上等兵 片山嘉一郎墓

○左面 (漢文を尾上試訳)
 片山嘉一郎君は伊予の吉田の人。身体は大きく逞しく威厳に満ちていた。常に狩猟を好み山野を跋渉していた。
 慶応二(1866)年七月七日生まれであるので明治二十(1887)年四月陸軍歩兵となり上等兵となって現役の三年を終えた。 
 今年明治二十七年夏、征清の役が起きて以後後備兵として召集に応じた。韓国・洛東に在って守備兵となり、斥候に抜擢されて忠清道に入り東学党蜂起の日に遭遇した。
 清安県米安に至り東学党と戦い命を捨てたのはこの年の十月二十七日であった。享年二十九歳。遺骨を釜山港陸軍埋葬地にて葬った。
 当時君が行動をともにしていた四人も戦死した。
 君、勇猛なこと衆にぬきんで、しばしば賊徒を退けた。たくましい丈夫の英名はとわにたたえられるであろう。
明治二十七年十二月

○ 裏面(尾上試読)
奉吊 
猛き名を 千代に残して もののふの 仰ぐ鑑と なりし君かな
      六代士族片山嘉三九 長男

○ 右面
 明治二十七年十月二十七日 
        片山嘉三九 建之

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 愛媛県吉田町人片山嘉一郎たちの戦死は、井上馨公使と金允植外務大臣の間の書簡で確認作業が進められた。
 次の資料は、翌月出された「駐韓日本公使館記録」1894(明治27)年11月10日付け記事である。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

1) [淸安地方 東徒の日兵殺害說の確認 及び 拿獲要請] 文書番号第二四二號

発送日 我十一月十日 (1894-11-10)

発送者 伯爵 井上馨 (受信者 金允植外務大臣)

○ [淸安地方東徒の日本兵殺害說の確認 及び犯人逮捕要請]

第二四二號

敬啓者前接貴函以我國人三名在淸安地方爲匪所害等情除旋經往復在案外玆據我南部兵站監牒報內開我曆十月二十三日駐在洛東兵站司令官密派部下軍曹山村熊松兵卒片山嘉一郞久保巖吉令其帶同傳語人上野棄次郞倂跟隨朝鮮役夫善敬贊赴往淸州地方偵察匪情而該一行雖逾旬日不見歸來惟以該地時方東匪群起兇勢堪虞另行探偵則果有風傳該一行五六日前在淸安縣附近地方爲匪所害云是否係與日前忠淸監司所報同案目下認眞偵探實情等因相應函請貴大臣査照核將前情整飭該道觀察使轉飭該地方官認眞査獲以憑究辦爲荷耑此順頌
台祉

◇ ◇ ここから訳文 ◇ ◇

【上の文章の試訳】尾上が韓国語訳文を参考にしてみた。

謹んで申し上げます。先日落手いたしました貴殿よりの書状に「日本国人三名が清州北東の清原地方において匪賊に殺された」
とありましたのでこの案件について貴殿と往復書簡を取り交わしたところです。

その後届いた、我が南部兵站監の諜報によれば

「陽暦十月二十三日、慶尚北道・洛東に駐在する洛東兵站部司令官がひそかに部下の軍曹山村熊松、兵卒片山嘉一郞、久保巖吉を通訳上野棄次郞並に朝鮮役夫善敬贊とともに清州地方に行かせ匪賊の情況を偵察させた。ところがその一行が十日を過ぎても帰営していない。その地は最近東匪が蜂起して険悪な情勢にあると憂慮されるので、重ねて別の探偵を派遣したところ、やはりこの一行が五六日前西安県付近の場所で匪賊に殺害されたとのうわさがあった。」

とのことでした。この情報は五六日忠清監の報ぜられた所と同じでありますので、今まさに事実だと認めたところです。この件について、忠清道監司またその地方官に命令を下してその事実を偵察して処理ができるようにしていただけますようお願いします。
◇ ◇ 訳文ここまで ◇ ◇

片山嘉一郎の名はまた、次に示す11月22日付け伊藤祐義仁川兵站司令官より井上公使宛に提出した死傷者名簿にも出てくる。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

明治二十七年十一月二十二日 (1894-11-22)

  発送者 仁川兵站司令官 伊藤祐義
  発送者 特命全權公使 伯爵 井上馨

(19) [東學黨による現在までの死傷者通報]

東學黨ノ爲メ 最初ヨリ今日迄死傷シタル者 調査致候處 別紙之通リニ有之候條 及御送附候也

明治二十七年十一月二十二日
  仁川兵站司令官 伊藤祐義

特命全權公使 伯爵 井上馨 殿

[別紙]
[死傷者名單]

○ 東學黨ノ爲メ戰死シタル者(9名)
台封兵站司令部
 騎兵大尉 竹內盛雅
洛東兵站司令部
 步兵一等軍曹   山村熊次
 同上等兵 片山嘉一郞
 同一等兵 久保巖吉
 通辯       上野捨次郞
 雇倉庫守衛 濱田于雄
可興兵站司令部
 步兵上等兵 酒向好五郞
 憲兵上等兵 南海爲三郞
利川兵站司令部
 步兵一等軍曹   井上楠彌太

○東學黨ノ爲メ負傷シタル者(9名)
釜山兵站司令部
 步兵上等兵 高橋淺吉
 同一等兵 岡野由太郞
 同     小野山丑太
洛東兵站司令部
 步兵二等兵 久保佐太郞
可興兵站司令部
 步兵小尉 原田常八
 步兵上等兵 栗田梅三郞
 同     伊藤正作
 同二等兵 井上敬次郞
 同      宮島寅吉

○東學黨ノ爲メ生死不明ノ者ナシ

 ◇ 引用記事及び名簿ここまで ◇ 



 忠清北道の清州市の北東隣が清原郡、この郡の北東隅に清安面があります(もともとは清州市も清原郡も同じ清州に含まれていた)。この辺一帯は北接・東学(全琫準たちは南接です)党の拠点です。洛東兵站支部に所属していた片山さんが東学農民革命軍に遭遇し戦死したのは北接の拠点清安面の米安でした。

 片山嘉一郎さんたちは抜擢されて斥候にでたのですが、清安まで出た所で東学農民革命軍に遭遇し戦死しました。応援部隊が派遣された「丹陽」も「忠州」も現在の「忠州湖」近辺にありますが、片山嘉一郎さんは、清安という場所から言うと、西側の忠州へ派遣された分隊にいたと思われます。

 ここまでに見た資料と墓碑銘の記述を比較しますと、墓碑銘のほうは死亡した日が10月27日と特定されており、戦闘のあった場所も【清安県米安】とあって、墓碑銘の記述のほうはこれらの資料の記事より詳しいようです。

 10月22日、農民革命軍の戦いの激化に絶えられなくなった南部兵站監(朝鮮兵站線守備を担当)が大本営に守備兵二中隊の派遣を要請しました。

 23日大本営は直ちに応援部隊の派遣に取り掛かります。この応援部隊の中心に、当時下関防衛に当たっていた部隊、すなわち愛媛県など四国の兵隊によって編成された後備歩兵第十九大隊が配置されることになります。

 なお、後備歩兵第十九大隊歩兵が山口で出発の準備に当たっている時期に、朝鮮に駐屯している日本軍からさらに東学農民革命軍を抑えるための兵が出されます。
 10月25日「慶尙道に於て丹陽府に東學黨の殘徒集合し府使の宅を襲ひ兵器を奪ひたり 府使は逃れたり 忠州にも暴徒蜂起せり。 右に就き洛東兵站部より丹陽へ一分隊、忠州へ一分隊の兵を送れり。」というのがそれです。