2010年6月8日 火曜日


5:10 起床


5:20~6:50 散歩 


6:50~7:25 庭いじり 大文字草(下の写真)の株分け。もともと三株だったのだがそれぞれが大きくなったので一株ずつ別に植えなおした。


7:45 朝食


09:00~10:00 昨日の日記の書き込み


10:00~10:40 『梶村秀樹著作集 第1巻』 Ⅲ 在朝日本人 に入る。


10:40~11:20 朝寝


11:20~12:00 『梶村秀樹著作集 第1巻』 Ⅲ 在朝日本人 を読む継ぐ。


12:10 昼食


午後はサンシンの練習をしたり、テレビを見たりゆっくり過ごした。


18:00過ぎ 夕食


20:00 就寝 すぐに寝入った


今日の食事
朝 ごはん ゴーヤーチャンプルー 野菜料理
昼 ごはん 味噌汁 タマネギ 大根葉料理 卵そぼろ
夜 そーめん たまごやき 肉じゃが 
 


本日の読書

『梶村秀樹著作集 第1巻』

Ⅲ 在庁日本人

「植民地と日本人」1974

◎在朝日本人史の欠落

・屈折した深層意識
「近代100年の日本庶民の生活史の、朝鮮をはじめとする植民地でのそれは、研究者がまったく避けて通ってきた領域である。さいきん、在日朝鮮人の苦難の歴史にある程度関心がもたれるようになっている。」
「敗戦の時点の在朝日本人数は約70万人、ちょうど現在の在日朝鮮人数とほぼ同じに増大していた。単純に人数からだけ言っても、小さな県一つ分はあり、日本人全体のなかで決して少なからぬ数であった。」「身近に植民地体験者をまったく持たない日本人は、おそらく一人もいないくらいだろう。

・「内地の者」

・「善良」な日本人
「1910(明治43)年以前に朝鮮に渡ったいわゆる『初期居留民』の姿を、あずあえて白日の下に曝してみたいと思う。

◎一旗組の生きざま

・初期居留民の商法
「〔写真説明〕 17~18世紀以来、朝鮮には商品経済が発展し、内発的近代化の萌芽が生まれていた。日本の侵入がむしろそれをつぶしてしまったのだ。」
「ことに明治10年代の居留民は、『百円の価格と有する輸入品が、図らずも1000円の価格に昇騰し、和船一艘の積荷をもって一万円の奇利を博しえたる珍談も少なからず。』
→「先に引いた安原清は、この状況を批判して、『かつて幕末に日本が欧米人の乱暴に泣かされた経験を思い起こして、朝鮮人に対して同じ経験をさせないようにせよう』と主張している。しかしこの警告もむなしく、欧米資本主義の論理に圧伏された日本庶民は、それに輪をかけたものを朝鮮で実演し設けたのだった」

・一旗組の出自
「資料によればかられ(明治前半期の朝鮮一旗組)は明らかに、権力・権威・財力・知識などどの基準ではかっても決してエリートではない人々であった。」
→「上からの資本主義化を目指す藩閥政府にとって、一旗組の輩出は一石二鳥の効果をもたらしたのであった。」

・出身地と正業
「初期居留民の出身地域を時期別に見ると、江華条約前後のころには、長崎県に属する対馬島民の数が圧倒的に多かった。」
「やがて明治10年(1877)代に入ると居留民の出身地構成は、依然として長崎県人を最多数としながらも、九州一円(大分・熊本・鹿児島 福岡は少ない)から山口・広島・愛媛あたりにまで広がる。」
「そして1890(明治23)年を転機に国産綿布輸出・穀物輸入という貿易の型が形成され、・・・居留民の出身地も西日本全域に広がり・・・」
「さらに日露戦争以降になると依然として九州一円を最多数としつつも全国化していく。」

・冒険者の荒稼ぎ
「1888(明治21)年ころからは徒党を組んだ冒険商人たちが内陸奥地不覚入り込んでいくようになったが、それも著名な鶏林奨業団(1895(明治28)年~)の例で判るように完全武装の商隊であって、日清戦争後までも、とても単身遊び半分に入り込めるような雰囲気ではなかったのである。」
「人参の密輸を並んで居留民の『生業』の一つであった朝鮮貨幣の贋造も、早くも1884(明治17)年から記録には登場している。」

◎国家権力と癒着

・防穀令事件
「国権論者に転向した自由党議員大石正巳が自ら買って出て特命全権公使として朝鮮に渡り、強引きわまる外交を展開し、ついには朝鮮政府から賠償金をむしりとった。」

・居留地上人の武勇伝

・大農場主の自衛

・反商反賊

◎植民地化の時代

・エリート植民者
「1905~1910年、日本国家は直接に朝鮮植民地化に乗り出した。」
→「冒険商人の蛮勇の時代から財閥独占の計算された資本力・組織力の時代へ、軍人と役人と大学での特権会社員などエリート植民者の新たな形成という変化であった。」
→「この植民地時代の新たな渡来者のうち多くの部分は、・・・意外なほど朝鮮の土地や人に間島図、よくもわるくも愛着も認識も持たずに過ごしたようである。いやでも朝鮮社会に具体的に入り込まざるをえなかったのは、農村に入った教員や金融組合の職人など比較的少数であった。」

・差別当然論

・民族優越感の壁
「大正・昭和の時期には、植民地社会の中にあっても、こういう任族優越感の壁を意識的に崩そうとした日本人が、ごくわずかながら全くいなかったわけではない。たとえば3・1運動への弾圧に抗命した兵士長井叔、朝鮮人同胞とともに教員労働組合を組織しようとした上甲米太郎・・・・・。併し、当事者の証言によれば、在朝日本人社会は、そういう人間を『恐ろしい気狂い』とみなしたのであった。」