2010年6月23日 水曜日


6:30 12時ころ一回トイレへ。その後ゆっくり寝て起床。

昨日の日記を書く。

9:00 朝食

10:00~11:30 読書。梶村秀樹著作集第二巻、読了。

12:00 昼食

サンシンの練習を少し。

13:00 今日は伊予市「ごしき」のお年寄りと歌を歌う日だ。13:00出発、相棒お二人をお迎えに。14:00~15:00 お年寄りと一緒に歌う。私はいつものように伴奏専門である。あっという間に終る。15:50 帰宅。

テレビを見たり、庭の手入れをしたり、風呂を洗ったり。妻は今晩の料理作りで忙しそう。

19時前、小花とお母さんが到着。一緒に夕食。小花は食事前(みんながまだ揃わないのに一人で「いただきます」と手を組む。私も付き合った。)

20:00 お先に就寝。息子もそのあと到着したそうだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日の食事
朝食 ごはん とまと 酢の物(アボガド、タコ、エビ、わかめ)
   厚揚げと小松菜煮物
昼食 ごはん 厚揚げと小松菜煮物 キウリ(味噌をつける)
夕食 ごはん かぼちゃの煮物 なすびなど トマトスープ 
   肉巻き(何の肉巻きだったかなあ?)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

梶村秀樹著作集第二巻 朝鮮史の方法
336ページ371ページ 了

「申采浩の朝鮮古代史像」(1978年)

○申采浩経歴
http://www.wombat.zaq.ne.jp/auamm705/index-sinjeho.html

○経歴
1880年~1910年
1880年11月7日「忠清道大徳区政生面塧洞(アイドウ)桃林里生まれ、7、8歳ころ忠清道清原郡琅城面帰来里に移り育った。」「1897年開化派系の高官・申箕善をたずね、その紹介で98年秋成勤館に入校し、1905年成均館博士の称号を得た。」

1905~1910年
「申采浩が国権回復運動の中枢をなす言論人としてきわめて精力的に活動した時期である」。皇城新聞論説委員。『大韓毎申報』朱筆。『大韓協会月報』、『畿湖興学会月報』に執筆。女性のためのハングル誌『家庭雑誌』(1905~)編集。新民会の設立、国債償還運動関与。

1910年~1936年
1910年4月、日韓併合に先立って、申采浩は同志とともに国を出た。ウラジオストーク、満州奉天を経て「15年ごろからはほぼ北京に住んだ。・・・赤貧あらうが如き暮らし」のなかで歴史研究に刻苦勉励した。
1923年義烈団のために「朝鮮革命宣言」の筆を執る。
ーー義烈団朝鮮革命宣言(1923年1月)ーー
http://members3.jcom.home.ne.jp/anarchism/shinchaeho-declarationofthekoreanrevolution1923.html

「1919年3.1運動後の上海における臨時政府をめぐる動きに」批判的にかかわる。事大主義的な利相伴を大統領にいただくことに徹底反対、機関紙『独立新聞』主筆就任要請も断り、北京に腰をすえて臨時政府の解体を唱えた創造派の中心人物」として活動した。

1926年ないし27年東方無政府主義連盟に加盟。48歳の「1928年5月、外国為替偽造によって取得した活動資金を台湾の同志に届けるべくキールン港におりたったと頃を逮捕され、裁判の末、10年の懲役刑に処され、旅順刑務所に投獄されてしまった。」

刑期を2年ほど残した「1936年2月21日、厳寒の牢獄の中で、57歳をもって永眠」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「歴史と文学」(1984年)

「1930年代の朝鮮を、もっぱら官製資料の側からみるならば、そこに浮かんでくるのは、強力で横暴な統治者が受け身な『物』のように民衆をさいなみ、民衆はただ『アイゴ、アイゴ』と悲鳴を上げながら逃げ惑うのみ、そういったイメージである。(・・・)
ところが『常緑樹(サンノクス)』(沈薫 著)に描き出されている農民たちのイメージは決してそういうものではない。確かに情況はすさまじいが、にもかかわらず農民たちは、人間的な生活感情をもって厳しい情況と対峙し、したたかに生き抜いている。この側面を欠落させた植民地民衆像は『意味としてみた』したがって『科学的』な民衆像として十全なものではなかったのである」。

沈薫について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E8%96%AB