2010年6月22日 火曜日


7:00 起床 しばらくテレビをみる

8:30 朝食

9:00~12:00 ホームページ記入と読書

日本コリア協会・愛媛編集部のグループホームのメンバー増量がうまく行ったらしく盛んに利用されているようだ。

13:00 昼食

昼寝

15:00 インターネットとつながらなくなった妻のパソコンの修理に若い業者が来てくれる。妻が利用していたある韓国のホームページが障害になって、パソコンが見られなくなってたらしい。修理代が四千数百円だった。まあ適当な値段だ。

昨日やった庭の草引きの後始末に取り組む。あとは捨てればよい。 



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今日の食事

朝食 ごはん みそしる レタスとキウリ 
   だし巻き卵(妻が昨日購入してきたもの おいしい)
昼食 残ったごはんで焼き飯
夕食 ごはん 厚揚げと小松菜(これもうまい) 焼き飯残り少し
   タコとエビとアボガドの酢の物(これもうまいがアボガドは
   堅かった)
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今日の読書
梶村秀樹の論文の続きである。

『東アジア地域における帝国主義体制への移行』(1981年)
275ページ~301ページ
○近代において日本、朝鮮、中国が、帝国主義国、植民地、半植民地になった。なぜこのような差が起きたのかは「50年来」の論争点なのだそうだ。
○日本だけがなぜ帝国主義国になったのか。それは日本経済の発展段階だけが「厳密な意味でのマニュファクチュア時代の端初的段階」にあったからだ、とする説があった。
○しかし、その後の研究の進展によって「家内手工業(商品生産)を基底として、問屋制を含む種々の小営業形態が散生しており、さらに部分的には明白にマニュファクチュアと確認される経営も発生している状態にあったという点で、開国前夜の日・朝・中三国は大同小異であった」ことがあきらかになった。
○1960年代半ばに遠山茂樹氏が「三国間の岐路」は「開国前の内的経済関係に規定される1860年代にあるのではなく、最終的には1894年の日清戦争をへて分岐が確定した」とした。
○「東アジア三国をまず同質の地平にすえて相互関係を考察するのでなければ、東アジア地域史像は完成し得ない。」
○「朝鮮の開国が最ともおくれたのは」「欧米資本主義の側が、その国内的要求にそう利害判断に基づいて、三国の門戸を叩く順序と強度を決めていったのである。」
○「20年弱の開国時差をおいて、日・朝両国に数多くの相似の事象を見出すことができる」。「その最後のものは、日本の自由民権運動と相似の、甲午直後の独立協会にはじまるブルジョア啓蒙運動であるが、それ以後相似性は失われる。」
○「事実として、後進資本主義発展の成功例は日本がほとんど最後であり、日本資本主義発達史の周知のような構造的ゆがみは、すでに相当の困難となってきている世界史的条件のなかでのかろうじての成功例であることを示唆している。」



ここで章が新しくなって「Ⅲ 意味としての歴史」

『日本帝国主義の問題』(1977年)305ページ~335ページ

○「憲兵警察のすさまじい拷問にあいながら金九は『・・・・最初にわたしの姓名をたずねたやつが、夜明けまで休みもしないのをみて、私は、奴等がいかにおのれの国の任務に忠実であるかを感じ取った。<やつらは、すでに奪い取ったひとの国の命脈を絶やそうとして夜を徹しているが、わたしは自分の国を取り戻すために、何度徹夜したことがあったろうか>と、みずからを省みて恥ずかしさを禁じえず、身をハリの筵の上に横たえられているような気持ちだった。<愛国者であると辞任していた私も、実は亡国の民の根性を持っていたのではないか>と思うと、眼が涙であふれた』と書き記している。」