2010年6月14日 月曜日


『梶原秀樹著作集第二巻 朝鮮史の方法』
Ⅰ 内在的発展の視角

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『李朝後半期朝鮮の社会経済構成に関する最近の研究をめぐって』(1963年)

はじめに

「李朝後半期はつまらない時代であるという通年は一般に浸透している。盛時も経済も混乱し、ひょっとすると絶対的に退化した時代かもしれないの考えられてきた。」
「しかし、果たして本当に、李朝後半期は、そんなつまらない時代なのだろうか。」
「このほような状況の中で、最近北朝鮮の歴史学者が李朝後半期の社会経済史研究を中心的な課題の一つとして設定し、組織的克体系的亜実証的研究に着手するに至り、その成果が続々公にされつつあるということは、画期的なことである。」

(一)通念の形成

●通念の形成

「遅れたみじめな朝鮮」という通念は明らかに作られたものである。

「このような、日本帝国主義正当化のための神話の一環としての李朝衰退論は、したがって、日本の政治的侵略の進行とともに成長していったものと推測される。実際そのとおりで、それが日本人の意識の中に完全に固定化していく契機は日露戦争前後にあった、と考えられる。少なくとも、明治10年代には、このような固定通念が固まってはいなかった。」

「例えば、最初に『旧韓国』社会性格論を展開した点で、上述の意味で政治的に、また後学の人々に対し、大きな影響を与えた、福田徳三の『経済単位発展史上の韓国の地位』にしても、その大胆な論旨の基づく所は、明治35年に試みたわずか数十日の朝鮮旅行の際の散漫な見聞だけだと、著者自ら書き記しているような状態である。」

●福田徳三の朝鮮社会論とその影響

「日露戦争のさなかに世に出た前述福田徳三の朝鮮社会論は『李朝末期の朝鮮は日本の藤原時代に相当する』と断定している。」

藤原時代説は『学会の定説』化してゆく。
『朝鮮文化一般はこれをわが国に比較すれば王朝の末期とも賞すべき時代で、わが国の藤原時代と同一の情態であった』(河合弘民『経済大辞書』大正二年)

●東洋社会論の時期

●戦後の停滞観の系譜

「李在茂は在日朝鮮人研究者であるが、『停滞論』は今日南朝鮮に一層絶望的に固定化された形で引き継がれている。「みじめな原状→それは我が民族がだらしなかったからだ」という自虐の論理として、それはいわゆる『民族虚無主義』的感覚を繁栄しているものといえよう。」

(二)北朝鮮歴史家の問題提起

●問題意識

「・・・我々は日本資本主義侵略以前に我が封建社会の胎内で、資本主義的要素が一定程度発生成長していたということを確証することによって、日程が彼らの侵略を合理化するために捏造したいわゆる『理論』を粉砕するとともに・・・」(金錫亨科学院歴史研究所所長「解放後の朝鮮の歴史学の発展」)

●『朝鮮近代革命運動史』第1章のシェーマ

●改訂版『朝鮮通史』の叙述

(三)内在的批判

●問題視角

●技術的側面

「第一に指摘されねばならないのは、やはり一般的に主唱されている諸命題の実証的基礎がまだまだ弱いということである。」

●商業資本と産業資本

●農民層分解論

「最後に、このように開国前すでに一定の変質を遂げた社会をして存在していた朝鮮が、解雇k後の日本資本主義の侵入によって別の方向へ変化させられていくメカニズムを追及することは、特に日本の研究者にとって重要なテーマであるということを指摘しておきたい。」
「少なくとも、李朝後半期は研究に値しないつまらない時期ではない。」

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『朝鮮近代史の若干の問題』(1964年)

(一)朝鮮近代史の時代区分

著者が「妥当と考える朝鮮近代史の時期区分と、それぞれの時期の基本的特徴を概括」する。

①1876年以前(江華条約以前)

「1860年代に初めて、欧米の外圧は朝鮮の封建勢力にとって、直接的なものとして受取らざるを得なくなった。

 1863年高宗の即位とともに王父として政治の実務を掌握した大院君は、このような内外の矛盾に直面した封建権力を維持するため、実質上郡県領域社会ごとに封建貴族の手に分散していた権力を王朝に集中し、それを持って外に対しては軍備を強化し、完全な鎖国政策をとった。
 内外の矛盾の深化の社会・思想的反映として、反封建・反キリスト教的な、神秘主義的宗教集団である東学が発生し(1860年)、たちまち多いな組織勢力に成長した。」

②1876年~1884年(9年間)

「閔妃勢力が1873年国王親政を契機に大院君から政権を奪い、1876年日本の強要を受けて江華条約を結んだ。」

「封建権力内部の先進知識分子は、開化派を形成して守旧派と対立するようになった。」

「この時期には、日本商人は主に英国製綿布を朝鮮市場へ搬入し、金・銀地金を搬出した。この時期に朝鮮に進出した日本商人は、主に国内の経済的変動から落伍しかけていた対馬・北九州一帯の前期的小商人層で
両国の価格体系の差を利用し、また暴力的手段によって暴利を得た。併しこの時期には、・・・内地の商品中通は朝鮮人商人が完全に掌握していた。」

「1882年ソウルの下級庸兵を中心とする貧民層の暴動によって、閔氏政権は倒され、大院君が衰退されて再び政権についた(壬午軍乱)」

「中国新王朝は実質上眠っていた封建宗主権を呼び覚まして軍事干渉を行い、大院君を拉致してその執政を不可能にした。」

「1882年から1884年までは、封建権力内部の開化派の影響が強く、・・・新しい状況への王朝の適応の試みが、最も積極的になされた時期であった。」

「1884年日本の教唆をうけつつ早産的に強行された金玉均ら開化派のクーデタの失敗。守旧勢力の支配下に帰した封建権力は、以後、体内的には退行的、対外的には屈従的な政策を取り続けた。」

③1884-1894年(11年間)

「この時期に封建権力はその統率力を失い、財政困難打開の玉の悪化乱鋳を強行するなどして、自らの支配の基礎となる再生産構造を破壊していった。」

「日中両国商人は、・・・この時期には、居留地貿易の枠をこえて内地行商に進出し」はじめた。

「甲午農民戦争は、在地下級吏族出身の知識層などに指導され、農民的小商品生産者を主体とし、封建権力の体制維持の要求が余儀なくする、また官僚個人の恣意的な収奪の強化に反対して戦われた。・・・東学は領域圏内的要求を全国的なものに結合する媒介の役割を果たした。」

④1894年~1904年(11年間)

「甲午農民戦争は、日・中両国の干渉によって鎮圧され、その要求する政権は実現されなかった。しかし、日清戦争によって中国を排除した日本の天皇制権力が強制した『甲午改革』も、朝鮮の合法則的歴史発展の要請を、ある程度反映しないわけにはいかなかった。」

「日本資本主義の存在のために、朝鮮が30年遅れて日本と同じ過程をたどることは決定的に阻止された。朝鮮は明白に半植民地、反封建社会に転化した。」

「日本商人はこの時期には、朝鮮自体の権力の空白を利用して、内地に定着し高利貸からさらに土地を取得し地主として収奪を展開するに至る。・・・表面的にはロシアの政治的影響力が強かった時期にも、このような動きによって朝鮮は実質的には日本の半植民地と化していた。」

「・・・政治的束縛が除去された条件によって、本格的なブルジョア的啓蒙雲度が組織されるようになり、反侵略勢力を結集した。集会、新聞その他の出版物の刊行などによって大衆的啓蒙の活動が広範に行われた。この運動は、半植民地的条件に規定されてその除去を目的としたため『愛国啓蒙運動』と呼ばれる。」

「商人の一部は買弁化して一進会(親日団体)の基礎となり、愛国啓蒙運動の破壊に奔走するに至った。」

⑤1904~1910年(7年間)

「日露戦争は帝国主義国間の戦争であると同時に、日本帝国主義の朝鮮侵略戦争であった。・・・1905年11月『保護協約』を強制して朝鮮を保護国(実質植民地)化、翌1906年『韓国投函府』を開設して伊藤博文統監の指揮の下に内政を掌握。・・・日本の経済進出は、・・・東洋拓殖株式会社のような準国営企業によって集中的に行われるに至る。」

「これ以後1910年の『日韓併合』までは、日本帝国主義と朝鮮民族の最後的な政治対決の過程であり、強大な武力によって日帝が朝鮮民族を圧倒してゆく過程であった。」

「この時期には、自己の地位保全以外に考えることの出来ない高級貴族官僚の一部と一進会などの買弁勢力を除き、残存していた封建貴族勢力を含めて全体としての朝鮮民族が、啓蒙的ブルジョア・イデオローグに指導されて日本帝国主義と対立した。」

⑥1910~1919年(10年間)

「この時期は、名目的にも朝鮮を植民地にした日本帝国主義が、政治・経済的支配機構を確立する過程であった。それは政治的には憲兵政治と呼ばれるもっともあらわな暴力的性格によって特徴付けられる。」

「民族主義的活動家は完全に沈黙を守るのでなければ国外に脱出するほかなく、その多数が満州・シベリア・上海・北京・アメリカなどへ亡命した。」

「植民地に於ても必須の社会政策的な面への顧慮はほとんどなされなかった。わずかの反抗にもたちまち強健が発動され、刑務所が満員のため前近代的な笞刑が執行される有様であった。」

「1919年の3・1運動はこのような暴圧政策に対する必然的な反発であり、自然発生的な全国的暴動に発展した。」

「大衆は指導部の意図を乗り越えて多数の犠牲者を出しながら暴力的闘争を展開した。」

⑦1919年~1931年(13年間)

「3・1運動は日本帝国主義に一定の衝撃を与えた。」


「日本帝国主義の政策転換―――「文化政治」は。3・1運動を指揮した朝鮮ブルジョアジーの怪獣・抱きこみによる支配機構の維持を内容とする。もちろん植民地支配の暴力的性格には少しも代わりはなかったが、名目的に支配機構の一部に朝鮮人が組み入れられ、朝鮮人による改良主義的な出版活動などがある程度認められた。」

「湖南財閥(金秊洙)など南朝鮮に今日まで続いている有力なブルジョアの一部は、この時期に産業資本としての出発点をおいている。」


※※※※※※ 永 井 叔 ※※※※※※
「私の知る限り、この時点で、自分の存在を賭けて植民地支配を否定し、3・1運動の心を理解しようとした日本人は永井叔ただ一人である。

 クリスチャンとしての反軍思想から反抗して青山学院を放校された永井叔は、1918(大正7)年12月ソウル龍山の78連隊に入隊させられ、ちょうど初年兵教育が終ったころの1919(大正8)年3月、『統治された朝鮮同胞への愛(同)情を胸いっぱいに持ちながら、いやいや”暴動鎮圧”にもついていき』、歩哨に立ったり、看護卒をつとめたりしていたが、いたたまれず、同年歳末ころ脱営を計って、これをとがめた上官を軍靴で蹴りつけ、さらに抜剣してきりかかって、二年間の柔営巣に書せられた。
 そして軍獄のなかで自分の生き方を考える。
 『・・・・・そこで私は(大正9(1920)年3月13日ーーーこの日は私にとってとうてい忘れることの出来ない日であったが、次のような決心をした。生涯、命のある限りは、バイオリンまたはマンドリンを掲げて托行し、路傍で、よしんば犬の如くまたジプシイの如く朽ち果て、行き倒れしようとも、ただ人の世を慰め、かつ救い、この穢塵世へ天の幸福と絶対平和をもたらすために、せめもはじも死も滅びも耐え忍ぼう・・・』
 彼は、この日に決めた大空詩人永井叔としての生涯を貫いて、1977(昭和52)年春、東京でなくなった(80歳)。
 この方法では、自分は救えても社会は変えられないではないかと批判することはやさしいが、その前に3・1運動の心に耳を傾けようとしたその真剣さに学ぶべきだろう。永井叔氏をほとんど唯一の例外として、自ら心を閉じて、朝鮮民衆の心を理解することを拒否した在朝日本人とは、いやすべての日本人とは、何者だろうか?」
ー註ー
永井叔氏とは
生まれた年・場所 明治29年1月19日松山市唐人町三丁目の三
乗松雅休は義叔父
「緑光土」1925(大正14)年8月発行
※※※※※※ 永井叔 ここまで ※※※※※※※※※



「1925年朝鮮共産党が結成された」が「当時の政治・社会的条件のもとで十分な大衆的基盤をもちえぬまま、弾圧と内部闘争とコミンテルンの指示によって1928年解消した。しかし、それ以後分散的なマルクス主義者の活動によって、民族解放を目標とする労働者・農民の運動は一艘さんになった(1929年元山ストライキ、光州学生事件)。」



※※※※※※ 上 甲 米 太 郎 ※※※※※※
1930(昭和5)年前後の朝鮮で社会主義的な反帝闘争にかかわった人々。
「わかっている範囲で、教員労組事件の上甲米太郎(八幡浜市出身)、『城大反帝同盟事件』にかかわった日本人学生市川朝彦(本籍、秋田市楢山末無町)、桜井三良(本籍、奈良県宇智郡牧野村)、平野而吉(本籍・山口県吉敷郡大内村)、平壌赤色労組事件の中心人物の一人と目された米川秋穂などの名を上げることが出来る。」  
    上甲米太郎(朝鮮・慶尚南道泗川郡昆明公立普通学校校長)
※※※※※※ 上甲米太郎 ここまで ※※※※※※


※※※※※※ 1930年11月3日光州学生独立運動のなかの 岩 城 錦 子 の たたかい ※※※※※※
http://mamo.huu.cc/iwaki01.html
※※※※※※※※※※※※      岩 城 錦 子 ここまで               ※※※※※

⑧1931~1945年(15年間)

「満州事変から日中戦争、太平洋戦争への日本帝国主義は、その破滅へ向かっての軍事的侵略の過程を歩んだ。日本帝国主義は、中国侵略の拠点として朝鮮を『兵站基地』化する一方、朝鮮の資源及び労働力を最大限に利用する必要に迫られた。」

「この時期に日本帝国主義は朝鮮に対する本格的な資本輸出を行ない、軍需用の重化学工業を急激に移植した。」

「1930年代には金日成の指導する間島パルチザンの武装闘争が民族解放闘争の中心的力量となり、国内へも一定の影響を与えた。」

「太平洋戦争の時期に入ると間島パルチザンの活動も不可能になった。」

「日本帝国主義は大量の労働力を朝鮮の農村から強制徴用し、朝鮮内・日本はもちろん遠く南洋群島まで連行し、鉱業・土木など特に危険の多い重労働に投入し酷使・虐待した。」

--以上--

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(二)大院君の政治的性格について

(三)「日本の朝鮮侵略」の質の問題

(四)日帝時代の朝鮮人ブルジョアジーについて

(五)侵略のイデオロギーとしての「朝鮮援助」論について

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「朝鮮近代史と金玉均の評価」1966年・1982年 

一 二 三 


「少なくとも南朝鮮や日本の状況からみれば、日本との関係・大衆との位相に於て、金玉均を英雄化することにはどうしてもためらいを感じざるを得ないのである。
しいて朝鮮近代史上に英雄を求めたいならば、全琫準、柳麟錫、李東輝など、歴史のゆがみを正面から受け止めながら、大衆運動のなかで変転・成長し挫折していった人々が大勢いるのではないか。」 

ーー77頁までーー