2010年6月12日 土曜日


4:50 いい調子で早起きである。
5:00 散歩に出発。漢那「日コリ」事務局長宅へ郵便物を入れてそのまま潮見山を小野谷からめぐる。元気に歩いている人が私を追い越してゆく。ウグイスが盛んに鳴いている。
6:45 散歩から帰着。風呂に入る。
7:30 朝食 ごはん ポテトサラダ みそしる
9:00 二階へ上がる。昨日の日記書きに1時間、そのあと読書。「朝鮮と日本人」第1巻 Ⅵ 日本人と朝鮮 269ページから。
12:15 昼食 ごはん 北海道のアスパラとスパム
今日は妻は午後お出かけである。
13:30~15:00 「朝鮮と日本人」第1巻 Ⅵ 日本人と朝鮮 の残り。395ページまで。今日は30ページほど読んだわけだ。
15:00~ テレビをみたり、庭に水をやったりする。
19:00 夕食 やきそば レタス ポテトサラダ。
20:00 就寝
22:00ころ アメリカの角中から電話あり。近くの日本人経営農場で働きたい若者はいないかなあ、と云う電話。車を運転中女性の車にぶつけられて大変だったとのこと。警察はアジア顔の角中を犯人と決め付けて攻めてあげようとするのだそうだ。ぶつけた女性が中に入って私が悪いと説明して助かったそうだ。アメリカらしい話。
また寝る。



「朝鮮と日本人」第1巻 Ⅵ 日本人と朝鮮 


在日朝鮮人・韓国人差別の淵源

 「日本人の朝鮮人に対する差別意識、特に民衆のそれは、基本的には明治以降、近代百年の歴史の中で作り出されてきたものである。そして植民地支配が日本の敗戦によってピリオドを打って三十数年をへた戦後の今日、なお日本社会の中にその差別意識の構造は、基本的に代わらない形で引き継がれてきている。」
差別の思想を生み出すことば

 「そしてその流れの中で、著名な福沢諭吉が『脱亜論』という論文を書いた。これはものすごくあけすけに民族差別の意識をぶちまけた原型といえます。今教科書問題で問題になっている近隣のアジア諸国との付き合いは断ち切って、欧米の仲間入りをし、欧米がアジアに対しているのとちょうど同じ方法をもってアジアに対すべきである、日本国家の進む道はそれしかないんだと主張している。日本の民衆意識、あるいは政府の政策に対しても、この文書ほど大きな否定的影響をおよぼしているものはほかにはないだろうと思われますが、ともかくも明治19年にはやくもこの『脱亜論』が書かれているのです。

 「たとえば司馬遼太郎さんが『坂の上の雲』なる小説で、明治の日本を、坂之上に浮かぶ白い雲を見上げながら必死になってサカをのぼって行く、欧米に追いつこうとしていく、いじらしい美しい姿として描き出し、惰性的に生きる日本の現代の我々は泣き所を旨くつかれたような形で、ベストセラーになったりもしましたけれども、私にはそのような近代史の捕らえ方は非常に侵害です。かなり根本的なところで間違っているんじゃないかと思います。欧米に一心不乱においつこうとした、その反面に、欧米はえらいという屈折した気持ちを抱きながら、一方では、逆におれたちよりおくれたものがある、というふうに見下すということが、まさに日露戦争のプロセスの中にはっきり現れているわけです。これを一方的に美しいものとする日本自体についてのでく全的な思い込みは、たとえば外から見れば、あるいは日本の中の在日朝鮮人の目から見れば、決して受け入れられるような見方とはいえないのではないか、日本的な常識を揺さぶるために、非常にわかりやすい例として極論をいたしますが、少し考えてみるべき問題がいると思います。

 「朝鮮を植民地化した日本は、朝鮮を統合するために朝鮮総督府なる季刊をおき、軍人が頂点に立って、もっぱら銃剣を前に立てての軍事支配と云う形で植民地体制を作り出していきましたけれど、そこにおいてどんなイデオロギーがふりまかれたかといいますと、この1910年、植民地化した時点からすでにいわゆる同化主義であります。・・・要点を言えばそれ決して強制的に日本国家に編入sだれた朝鮮の民衆を対等とみなすということを意味しないわけであります。日本国籍を持つ日本臣民ではあるけれども、一段下の日本臣民と規定する『主義』なのです。・・・ドア得かと云うのは、決して平等に扱うというのではなくて、朝鮮民族は独立した民族だということを認めまいとするところにアクセントのある思想と理解すべきだと思います。」
 しかし、「朝鮮人は決してそのまた末端の日本臣民に甘んじてなるような屈服を、一般的に民衆のレベルからみても、受け入れることはありませんでした。」
 「そもそも帝国主義の時代には、植民地支配と被支配と云う関係は、それこそ世界中いたるところに、欧米が先頭に立って作り出していったわけですけれども、その帝国主義世界の中で相対的に最もよく似た歴史を持つ二つの国が、一方が帝国主義、一方が植民地支配下という極端な形に分解させられていくというケースは、日本と朝鮮の関係をおいて他にはないと思います。





サハリン朝鮮人の特集にあたって

竹島=独島問題と日本国家

 ※大変興味深い内容である。
 はじめに
 日本国民の「竹島」認識
 韓国・朝鮮側の基本姿勢
 日韓両政府間の論争文献
 竹島=独島の自然条件
 竹島=独島の地理的位置
 竹島=独島の歴史的名称
 竹島=独島の認知
 十七世紀の実効的経営?
 竹島=独島の帰属についての意識
 帝国主義的な1905年の日本編入
  「以上のような歴史的経緯の末に、日本政府は1905年1月28日にいたって、竹島=独島を「竹島」と名づけ『本邦所属』とすることを閣議決定し、その指示に従って島根県知事が同年2月22日付島根県告示四〇号をもって『自今本件所属隠岐島司の所管』と公示する形で、はじめて日本領土に編入した。逆に言えばそれまでは日本領土ではなかったのである。・・・周知のとおり、日本はすでに朝鮮全体の侵略を目的とする日露戦争を開始しており、朝鮮全土を軍事占領下におき、軍事直を背景に1904年2月の『日韓議定書』を供して実質上の保護国体制下におき、さらに同年8月の『第一次日韓協約』によって朝鮮政府内に顧問官を送り込んで内政を牛耳らせてていた。」
 「朝鮮側がこの島根県編入の事実を知ったのは、約一年後の1906年3月に島根県第三部長神西由太郎以下44名の一行が、竹島=独島をへて鬱陵島にいたり、郡守沈興沢にそのことを告げたからである。
 戦後の竹島=独島」
 日韓条約と竹島=独島
 国際法とはなにか?
 最近の事態
 おわりに

「日帝」との対峙は過去のものであるか?

歴史的視点からみた日韓関係

歴史をねじまげてはいけない

「近代史」における朝鮮と日本
 390ページ 『日本がしはいしなかったら、朝鮮は必ずロシアの支配下に入り、もっとひどい目にあったにちがいない』というのは存在しなかった歴史を想像することに他ならないが、どちらがしはいしたにせよ、朝鮮民衆にとってふこうであったろうことは基本的に違いはなく、その度合いの軽重を測りうる基準を我々は何ら持ち合わせていないのである。」