2010年5月13日 木曜日

昨夜は23時まで映画「ミリオンダラー・ベイビイ」をみた。クリント・イーストウッドとヒラリー・スワンク。二回目の観賞だがなかなか良かった。

今朝は7時起床。朝風呂。風呂を出て「ゲゲゲの鬼太郎」をみる。いい調子だ。

朝食のあと、二階に上がって読書。今日から『近代植民地都市 釜山』を読む。
「九州国際大学社会文化研究所叢書 第5号」
著者 坂本悠一(九州国際大学経済学部教授 第2・4章執筆   1947年高知県生まれ)    
    木村健二(下関市立大学経済学具教授 第1・3・5章執筆 1950年愛媛県生まれ)

昼食とあと2時40分から3時40分まで昼寝。

3時40分から5時まで読書続き。第2章まで読んで今日は終わり。

大相撲を見る。

夕食のあと、テレビで野球選手スタルヒンの特集番組を見る。40歳で交通事故で死ぬ。

今日の食事
朝 ごはん 卵焼き(自作) 味噌汁 シチュー キャベツにトマト
昼 (妻は外出) 卵チャーハンを作って食う
夜 ごはん 鶏肉のレモン煮(なかなかうまかった) ブロッコリ   味噌汁

『近代植民地都市 釜山』「第1章 釜山への日本人の進出と経済団体』

 引用1
 以上に見られるように、日露戦争以降、とりわけ併合以降の在朝日
 本人の位置は、限りなく朝鮮人と同一の法体系の下に置かれる方向
 に進み、それによって大幅な既得権の喪失につながっていったので
 ある。もっとも、初等教育に関しては引き続き日本人と朝鮮人で別
 々に実施され、在留日本人サイドには「学校組合」が設置されて初
 等教育機関の管理を行った。また、出版法や戸籍法などの適用に際
 しても、日本人と朝鮮人で異なる対応がなされることになった。

 引用2
 1909年末における釜山在留日本人の年齢別構成をあげてみる。10歳
 ごとの人数では、30代、40代を最多としつつも、10歳までの人口が
 16.3%に達し、ピラミッド型に展開していく方向にあったことをう
 かがえる。

 引用3
 出世地別日本人(1930年) 愛媛県11,485人 2.2% 10位
 四国で10位以内に入ったのは愛媛県だけ。

 引用4
 そしてこうした矛盾問題は、先の朝鮮人と同一の法体系の下に置か
 れる事態御進行とあいまって、在朝日本人御行動をいっそう朝鮮人
 差別的なものとし、1933(昭和8)年には朝鮮憲兵隊司令部により
 『朝鮮同胞に対する内地人反省資録』という冊子の刊行につながっ
 てゆく。(68項目の差別事例をあげて日本人の反省と求めた)

 引用5
 1930年の都市別の日本人人口では、京城が第1位で10万人を超し、釜
 山は第2位で4万7761人にのぼった。このほか1万人を越したのは、平
 壌、大邱、仁川の3都市であった。なお、釜山の朝鮮人人口は9万
 7558人となって日本人の2倍以上に達し、商業者数でも日本人を上回
 っており、釜山の経済社会にとって無視しえぬ存在となっていたと
 いえる。

「第2章 1920年代後半における釜山府政  
       --広報誌『釜山』に見るその動向--」
 引用1
 表2-3 釜山府協議会員一覧
 愛媛県出身者
 芥川完一郎 1926年(56票 三回目) 1929年(48票 四回目)
 白石馬太郎 1926年( 不出馬  ) 1929年(52票 初回目)

 引用2
 72ページ 1927年発行の「市民体操奨励号」
 (釜山)府民の死亡率中に占める壮年者の割合が37%
  NHKの「御大典」記念事業として企画したラジオ体操は1928年11月
  から