2010年3月14日 日曜日


.8:00 起床。まだ眠い。


10:00から12:15まで『1885ー1886年の南朝鮮旅行』 (参謀本部 カルネイェフ大佐、ミハイロフ中尉)を読んで読み上げる。なかなか面白かった。
・244p~270p
<全行程は次の通り>
団隊名 南朝鮮への踏査団 参謀本部所属 カルネイエフ大佐 東シベリア正規軍第三大隊所属ミハイロフ中尉 カザーク兵4名 二名の朝鮮人通訳 総勢8名
・1898年11月8日にヴラジヴォストークに向けてハバロフスクを立てとの命令書。
・11月29日、ブラヂヴォストークから長崎へ。12月7日、長崎から釜山を経由して済物浦へ。12月15日東莱(トンネ)を指して出発。12月16日、ミハイロフ中尉は居昌県、蔚山、を経て迎日県へ、私は梁山、彦陽県、慶州を経て迎日県へ。ここまでで踏査団が訪れた町は13、村は434。
・迎日県から興海、清河、ついで盈徳、寧海。
・寧海から英陽県へ。英陽県で親を失った子供を一人引き取る。12月30日、新年を英陽県で迎えることにする。
・英陽県から永春郡(栄州か?)へ。ここからまた二手に分かれる。ミハイロフ中尉は順興を経て豊基へ、カルネイエフ大佐は直接豊基へ。豊基から丹陽を経て清風へ。丹陽と清風の郡守は忠州へ逃げていた。郡守が国王の命令に従って自分のように坊主頭になるよう住民に命令したところ、住民が頑強に反対した。それで郡守が逃げた。
・清風から南西に向い忠州に入る。忠州から16露里の可興には日本の電信局があり、日本軍第20連隊所属の兵士30名が駐在し電話局の防衛に当たっていた。(福知山中隊)
・1月12日驪州(ヨジュ)を発ち、カルネイエフ大佐は漢江を渡って右岸(流れにそって右岸)に沿って楊平郡へ、ミハイロフ中尉は左岸から楊平郡へ。楊平は我々が訪ねた町のうちで最も汚い町だった。
・漢江の左岸に渡り漢江をくだる。ソウルに到着。徳寿宮の裏側に大きいロシア帝国公使館があった。
・218pから閔妃殺戮の報告あり。
・233p ソウルから済物浦を経て、3月1日済物浦から仁川、水原をへて3月13日公州へ。公州から熊津を経て全州へ入る。ミハイロフ中尉一行は釜山へ、カルネイエフ大佐一行は淳昌へ。淳昌へは東学軍から、逃げ去った郡守を捨てて東学軍に合流せよとの最後通牒が届いた所だという。
・3月22日潭陽に到着。潭陽の町はすでに強盗(東学党)の支配下に入っていた。3月23日羅州に向けて出発。光州では東学党指揮官及び副官と話して分かれた。いよいよ羅州の町である。ここでも東学党が近づいてきて、ロシアはまもなく日本に宣戦を布告するかどうか、聞いてきた。戦争は最後の手段であってまだそのような手段に訴える必要がないことを説明した。要塞に入りソウルでも見かけなかったようなご馳走を受けた。翌日狩猟が我々を見舞った。私は彼とともに要塞を視察した。
・3月36日務安に向けて出発し木浦に入る。木浦から務安へ。務安では土砂降りの雨で足を止められて4月2日になって霊岩に向かって出発できた。霊岩から康津、長興、宝城、楽安を経て順天へ。光陽で全羅道と別れ慶尚道に入る。
・五つの峠を越え、蟾津江を経て河東へ。河東で雨に降られて一日休む、河東から昆陽郡に入ると政府軍の兵士が歓迎してくれた。
・泗川へ。固城から鎮海、馬山、昌原、金海を経て、4月24日ミハイロフ中尉が我々を迎えるために洛東江河畔に現れた。
・翌日釜山に入った。翌4月26日ロシアの大艦隊に乗って釜山と分かれた。


午後、女子マラソンを見ていたが、途中から1時間20分散歩した。久しぶりの散歩であった。


帰宅したら小花が寝入った所だった。二階で仕事をしていると小花が起きてやってきた。しばらく遊ぶ。


<今日の食事>
朝 ごはん 高菜とちくわの炒め物
昼 ラーメン
晩 ごはん 鶏肉のさっぱり煮 春雨とそぼろの炒め物
(妻は一階にいて私は二階でパソコンを叩いている。今日も朝昼晩のメニュー完成までに一階と二階をなんども往復した。)