2008念2月に後備歩兵第十九大隊兵士の墓石探しに出かけました。そのときの模様を同行の佐々木泉さんが書いてくれましたので、佐々木さんの了承を得て若干補足をしたものをご披露します。


後備歩兵第十九大隊兵士

の眠る墓地を発見

                          日本コリア協会・愛媛 理事 佐々木泉


 年末のある日、「愛媛新聞」の前身紙である海南新聞の記事を手掛りに、愛媛県から東学農民戦争に動員され戦病死した二人の兵士のお墓を探しに、尾上事務局長と出かけました。

 まず、風早郡粟井村大字久保」の河野十蔵さんのお墓を探しました

 この方は、明治27(1894)年11月7日出征、翌28年7月11日仁川の兵站病院で脚気症で死去された方です

 脚気は日本人にとって結核と並んで国民病といわれ、日露戦争でもたくさんの死者をだしたくらいですから、日清戦争では相当数の死者がでていたのでした。ちなみに、徳川家茂も和宮も小松帯刀も脚気で亡くなっていますし、明治天皇も脚気を患っていました。

 さて、「海南新聞」の記事では、

「その遺髪故郷へ到着に付き去る(8月)31日午後2時出棺、同村同大字池田の墓地において仏式葬儀を執行せり。其遺髪故郷へ到着に付き 去る(※八月)三十一日午後二時出棺 同村同大字池田の墓地に於て仏式葬儀を執行せり 祭主は同村真福寺住職太田和瑞隆氏外七名、同郡地方各村長、村役場吏員、村会議員、駐在所巡査、在郷兵、休暇兵、赤十字社員、兵事会員、学校教員及び生徒、青年倶楽部員 其他有志等 会葬者五百余名にして在郷兵より「吊慰忠魂」と記せし赤旗 及び有志より「名誉義魂」 青年倶楽部より「忠魂輝天地」と記せし同品を贈り盛大なる葬儀なりしと云ふ」

とありました。

そこでまず
手始めに墓地があるはずの「風早村大字池田」を探し回ったのですが見つかりませんそこで次に祭主となった「真福寺住職」をたよりに、一字違いの「蓮福寺」を訪ね、ご住職に話を伺ったところ、真福寺は現在存在せず、真福寺を含む3寺が統合されて現在の蓮福寺になったということがわかり、手応えを覚えました。

 しかし、ご住職は過去帖を取り出して明治二十八年の項を繰っていただいたのですが残念ながら、河野十蔵の名はありません。こういった調査はなかなか一筋縄ではいかないものです。

 ご住職は、「大字久保」というのは上の「久保」と下の「久保」があって、この川筋を上ったあたりも「上の久保」なので、そこにはちょうど市役所の支所もあることだし、そちらを尋ねてみたらよいのではと助言くださいました。

 支所を訪ねると若い職員が相談にのってくれました。しかし、余りに昔のことであり、この辺は河野姓の家も多くて、特定できないという返事でした。「そりゃそうだろう」と当方も納得して、支所を後にしようとしていたとき念のため「この辺りに墓地はありませんか」と尋ねると、「小さい墓地ですが、すぐ近くにありますよ」と教えてくれました。

 あまり期待せずに「一期一会」という気分でその墓地に入ってみました。なるほどそれほど大きい墓地ではありませんが、河野姓の軍人墓がいくつかありました。そのなかの一つに、「沖縄の首里」で亡くなったことが判る墓標がありました。尾上事務局長は、「沖縄で亡くなった第22連隊の兵士の墓を見るのは初めてだ」といたく感激して写真を取っていました。本命には至らぬまでも、大きな収穫でありました。

 愛媛の郷土部隊である22連隊は、日清戦争で初めて海外に派兵されて朝鮮に侵入し鴨緑江を越えて清国まで攻め入りました。その後日露戦争、シベリア出兵、日中戦争(第一次上海事件)と侵略戦争に動員され、最後は満州から沖縄に投入され、沖縄南部で米軍によって全滅させられました。このお墓は沖縄で米軍に殺された兵士の墓なのでした。

 ほかにも河野姓の墓はいくつかありましたが、文字がただちには判明せず、これでは確認ができん、首里で没した兵士の墓を発見できたこだけでよしとしようと、引き上げにかかったところ……。

 実はさきほどから墓地をうろつく私たち二人組を遠くからいぶかしんでいた女性がお二人おられたのですが、帰り道に尾上事務局長が、そのお一人に「明治時代の話なので、たぶんおわかりにならんだろうとは思いますが、河野十蔵さんという人のお墓を探しています、ごぞんじないでしょうね」とたずねたとたんに、もう一人の女性人が「うちのおじいさんよ」と声を上げたのです。

 このシーンを思い出すと、「エーッ」とか「ウッソ−」と言いたくなるほどのタイミングで、安手のテレビ・ドキュメンタリーみたいですが、本当です。

 この女性の、正確には曽祖父に当たるのが、いまから103年前、30歳前後で亡くなった河野十蔵さんだったのです。

                           
そのお墓には代々墓のほかに四五基の古い墓石がありそのなかのどれかが河野蔵さんのものらしいのですが、その女性にもどれが十蔵さんのものかはわからないとのこと。別に機会のもう一度お訪ねし十蔵さんのお墓を教えてもらうことにしました。私たちは墓群の前に線香を上げこの墓地を辞しました。

 その女性も曽祖父が戦死ではなく病死であったことはご存知でしたが、脚気が死因だった事までは知らなかったとのこと、また葬儀には五百名もの会葬者があったことなどまったくご存じなかったそうです。ご子孫にそんなことをお伝えできたこともうれしいことでした。

 それにしても、蓮福寺のご住職が「上の久保」のことを教えていただいたから、また、支所の方が近くの墓を教えていただいたから、またまた、尾上事務局長がダメモトであの女性に声を掛けたから、という偶然があってやっとたどり着いたのだなあと感慨を持ちました。

 もうお一人の鵜高春吉さんについては、調査継続中ですが、太山寺ご住職に大変お世話になりました。