2000年 12月23日 土曜日

 『本名』 最終回


 
 私はT婆さんに、この夏の喜木津訪問の話をした。そして、われら一族の祖先が喜木津から山を越えて上須戒に移住して来たという話の真偽を尋ねた。

 T婆さんはこともなげにこう話した。

 「それは尾上家に嫁入りしてきたあんたの祖母さんのナカさんのことよ.ナカさんは伊方の出でな、喜木津に嫁入しなはって、なんかの事情で離婚しなさったんよ。その後、上須戒の金太郎さん、あんたの祖父さんよな、その金太郎さんとこへ嫁に来なはったんよ。これがどこぞで一緒ごたになって、山越えの話になったんじゃろ。」

 納骨のあと、二宮の二階で宴がもたれた。その席で、ナカさんの女傑ぶりを示すエピソードがいくつも紹介された。ナカ祖母さんは女傑ゆえに、夫の出身地まで変えてしまったらしい。

 こうなると「尾上」の読み方も、どうやらオノウエが正しいようだ。祖先たちは代々、このオノウエの岡に住まって、オノウエの弥七だの、オノウエの宮造だのと呼ばれていたはずだから。

 それにしても、金太郎といえば私の祖父にすぎないのに、孫の代になるとこのように出身地さえおぼろげになり、いやおぽろげどころか、とんでもない異聞さえ流布してしまう。

 一族の記憶がこの程度のものであるから、私の孫たちも私についてはなにも知らないということになるのだろう。さぴしいような気もするし、それでよいようにも思える。

 松山に帰る自動車の中で、私は母に、「お墓には、どこで生まれて、どこで仕事をして、どこで死んだかくわしく書いておかんといけんなあ。すぐわからんようになるけん.」

と冗談半分に話した。

 しかし、単に生き、単に死んで行くのが常であった庶民にとって、墓碑に軍隊での最終階級と本名を大きな文字で刻んだ時代が、戒名をつつましく刻んだ時代より幸わせだったとも思えない。墓を記念碑と考える考え方は、単に死んでいくだけでは満足できない近代人のむさぽりなのかもしれない。
                           (1983年12月20日)