2000年 12月21日 水曜日

 『本名』 その6


 
 九月の半ばころになって、上須戒の二宮のおばさん(義従姉)からお墓の件で電話があった。例の二宮である。義従姉も二十数年前に亡くなった夫の石塔をまだ建てていない。ここも川原の右のたぐいの基である。

 以前からお基を造る時は一緒に造ろうという話になっていたのであるが、二宮のほうで急に話がすすんで来月石塔あげができるようになったので、急拠こちちの都合を問い合わすことになったという。

 しかし、こちらはさしあたり予算が立たないし、松山から一時間すこしで行けるF寺の墓地に墓をつくろうか、という気持もあったので、一緒にお墓を造る話は遠慮した。

 十月になって私は、石塔あげの法要のために母とともに上須戒へ行った。松山から自動車で二時間ほどである。私たちが着いた時はまだ二人しか客が乗てなかったが、そのうち十数人になった。

 顔を見知った人は三、四人しかいない。やがてF寺の僧侶も到着した。みんなは三台の自家用車に分乗して墓地へ行った。墓地は土地の人々がオノウエと称している岡の上にある。

 読経が始まった。若い僧は、次の予定があるらしく、汗をかきながらえらく早口で経を唱えた。

 真新しい墓石の下の納骨室に三つ四つの骨壷が納められた。義従姉は小さな骨壺を掌にのせて、

 「うちのご先祖の骨壷を取り出しとったらこの壷が出て釆て、これだけお位牌と合わんのやけど、これもうちのご先祖でしょうかなあ。」 と年長の親戚に仰いた。

 Tという婆さんがすぐに明快な答を示したので、その壷も一緒に納められた.T婆さんは八十をとっくに越しているが、背筋もすっきり伸びており顔立ちもはっきりしている。今では一族の歴史の語り部として貴重な存在となっている。
                           (1983年12月20日)