2000年 12月16日 土曜日

 『本名』 その2


 
 しかし、ふり返って、なぜ私の姓の読み方が確定しないかを考えてみれば、私もある意味ではあの孤児たちと似通った状況に置かれていることに気づく。オノエなのか、オノウエなのか確定しない原因は案外簡単なことなのである。

 それはつまり、「断言する人」がいないということなのだ。私の父が、あるいは、「尾上」姓の親戚が、「尾上」はオノエだ、あるいは、オノウエだ、と断言すれば、それで片づく問題なのである。

 ところが、父は昭和十九年に死んでしまったし、父には兄弟はいなかったから、「尾上」をなのる親戚は一人もいない。だから断言できない。

 中国残留孤児たちが求めているものも、やはり、親や親戚の「断言」なのである。血液型が血縁を証明するわけではない。結局は、最後のところは、肉親の「断言」がきめてになる。

 さて、私には、父親の墓を建てるという宿題がある。我が家の墓は、大洲市の上須戒という、バスが一日一往復しかない山あいの小さな集落にある。墓地は私の祖父や曽祖父が住んでいたというなだらかな岡の上である。

 赤土の、細くて急な坂道を、掛け声をかけて登ると、まず左側に五基ほどの苔むした小さな墓石が並んでいる。この墓はもう今ではお参りに来る人もいない、いわば無縁仏である。

 墓地の真中に三メートルほどの高さのシキビの木があって、その木より右側が尾上家と二宮家の墓である。二宮家は、亡父の姉の嫁入り先である。尾上の先祖と二宮の先祖は、その昔、伊予灘に面する喜木津というところから一緒に山を越えてこの山あいの村へ移住して来たのだと聞いている。               

 尾上家の墓は、祖父夫婦と曽祖父夫婦の墓は石塔がたてられているけれど、私の父の墓には、河原から運んできた石がめじるしのように置いてあるだけだ。

 父が、出稼ぎ先の外地で、女房や子どもには何も残せぬままぽっくり死んでしまい、母はその後の二十数年間、子どもの養育に懸命で墓のことにまで頭をめぐらす余裕がなかったこと。

 そうやってやっと成人させた一人息子が、自分にはなんの思い出も残さず死んでいった父親に興味を抱こうとせず、かえってわずらわしくさえ感じ続けていたこと。これらの事情のために、父の墓石は石ころのままで四十年を経過したのであった。

(1983)