2000年 12月12日 火曜日

 水野広徳 1


   昔、「えびす銀座」という場末の飲み屋街に入り浸っていたことがあった。確か「マリア」とかいういかがわしい店《 一度入った(^^ゞ 》もあったが、その店の斜め前の「倉」というスナック(今は中心街に移っている)がお気に入りで、悪友たちと週に2、3回は通っていた。飲み盛りだった。議論したり殴り合ったりしながら、5,6年は通ったのかなあ。

 当時、この街がなぜ「えびす銀座」なのか考えたこともなかったが、最近、ここの町名が昔「北夷子町」だったと教えられた。さっそく市役所に照会してみると、昭和39年6月11日に実施された戦災復興関係の区画整理までは「北夷子町」は健在だったそうだ。忘暮楼がこの街に足を踏み入れたのは昭和40年代後半だったから、そのときはこの地名はすでになくなっていたのだった。

 1人の帝国軍人が、第1次世界大戦後のヨーロッパの悲惨な現実を凝視することによって、ごりごりの軍国主義者から徹底した反戦論客に転身した。ご存知、水野広徳大佐である。彼が3歳(明治10年、西南戦争の年であたる)から6歳(明治13年)までの幼少時を過ごした松山市北夷子町3番地は、現在の松山市千舟町2丁目7番29、この「えびす通り」に面した家であったらしい。家は昭和20年7月26日から始まった松山空襲で焼け落ちたと思われるが、その家の位置は現在「千舟モータープル」という有料駐車場があるあたりだったようだ。

 斎藤隆夫に続いて「海軍大佐の反戦 水野広徳」(前坂俊之編 雄山閣 1993)を読んでいる。斎藤隆夫は侵略戦争を生存競争と自然淘汰の原理に基づく人類普遍の正当な行為をとらえる「社会ダーウィニズム」の立場でからの戦争批判であったが、水野広徳は徹底した反戦論者であった。その点で我々が学ぶところが、また多いのである。私自身の反戦思想を点検するにまたとない機会でもある。心して読み進めたい。