2000年 12月4日 月曜日

 「酔客のごとく」 上


   スキャナーが作動し始めたのでいろいろスキャンしてます。この「酔客のごとく」は1988年11月に書いたもので、裕仁天皇の死去を取り上げました。長いので2回に分けました。

酔客のごとく 1


オサンス

 ソウル・オリソピックもたけなわ。昨日は女子バレーの試合がありました。
 日本と韓国の対戦でした。テレビの前に座っていると息子がやって きて冷やかし半分で、「お父さん、どっち応援しよるん」と話しかけ てきました。「韓国」と答えると、「やっぱり。よわったなあ、ぼく どっちにしょう。」困ってない癖に困ったような顔をして隣で観戦 を始めます。息子は勿論日本びいきです。女房もやけに気合いをい れて日本を応援しています。

 私は本当にそんな程度の日本人なのです。そして、今の所これ以 上まともな日本人になろうという気もありません。

 そんな私ではありますが、私は日本国憲法が好きです。この憲法 があるからなんとか希望をもってこの国で生きているといってもよ いくらいなのです。

 そんなに好きな憲法だけれども、象徴天皇の規定だけは正直言ってていまだにしっくりきません。私にはそもそも、日本人が、天皇などという象徴がないとやっていけない国民であるとは思えないので す。

 さて、その象徴の地位にある裕仁さんが今「予断を許さない状 況」にあります。
 9月20日以来、国民の朝食の時間には必ず裕仁さんの「下血」のニュースが流されています。そして、小学 校の運動会、自民党の政経パーティー、各地のお祭りやタレントの結婚式の「自粛」ニュース、そして、10日間で二百万人に達したという「記帳jのニュースが続きます。「下血」「自粛」「記帳」の三つが最近の皇室ニュースのキーワードです。NHKをはじめとするテレビ局は、裕仁さんの逝去の瞬間を逃さないようにと連日24時間放映を続けています。

 新聞は毎日裕仁さんの病状に関するデータ、体温・心柏数・呼吸数・血圧・輸血量の日々の変化を飽きることもなく掲載しつづけています。こんなデータはお医者さんと裕仁さんのご家族が知っておられればよいことです。

 裕仁さんのおじいさん・睦仁さん(明治天皇)も、お父さん・嘉仁さん(大正天皇)も病死されました。
 明治45年7月、裕仁さんのおじいさんが重態になられたときはどうだったのでしょう。このときは、発病の六日後の20日に

「さる14日より胃腸に御故障あらせられ、16日よりご重態」

と の公式発表がありました。そして、10日後の7月30日には死去されました。

 当時の様子を振り返るために、まず陸軍軍医総監・医務局長、当時51歳の森鴎外の日記をのぞいて見ましょう。(明治45年7月)

「二十日(土)晴。所々白雲あり。暑。風あり。荒木政子来宿す。退衙後聖上御不予の事賜る」
「二十一日(日)晴。暑。朝参内す。…」

 鴎外が「聖上御不予(病気)」の報に接したのも宮内省の公式発表によってのようです。この後、連日、後に「大正政変」の主人公となる上原大臣から天皇の病状を伝えられます。興味深いのは24日の記事です。

「二十四日(水) …上原大臣陛下の御病状を伝ふ。…茉莉、杏奴、政子納涼博覧会に行く。」

 鴎外の娘さんたち(長女菜荊さんは当時九歳位と思われる)は納涼博覧会に出掛けています。納涼博覧会は中止されておりませんし、鴎外さんもとくに「自粛」を促した風でもありません。

今日はここまで。それではまた明日