2000年 11月7日 火曜日

 一読の価値あり


   手元に2000年10月24日(2週間前だ!)第一刷発行の「日本の歴史01 縄文の生活誌」(岡村道雄著)がある。帯には「新しい発掘で見えた列島の豊かさ いま『日本』を問い直す」とあり、さらに帯の背の部分には「私たちの原点がここにある」とまで書いてある。講談社『日本の歴史』の第一回配本である。

 意欲に満ちたこの本の第一章の冒頭にあの藤村新一氏(遺跡捏造家)が登場する。一読の価値のある文章である。以下、引用。

 

 第一章「原人」たちの秋

1 日本列島人の機嫌

なぜ、石器は埋められたのか←面白い見出し(^。^)

 「原人はなぜ、石器を人目から隠すように埋めたのだろうか?(←ますます面白い)しかも、なにかを暗示するようかのように、大きいものはT字形に、小さいものはその周りを取り囲んでいる…」

 1995年、宮城県築館町上高森イセキで、60万年前のものと思われる地層を掘っていた人たちの間に衝撃が走った。

 先ほどから黙々と土を掘っていた石器発見の名人、藤村新一氏が突然、「ここだけ土が円くて柔らかい.小さな穴があるんじゃないか」といいはじめた。彼が慎重に竹串を刺して土の下を探っていくと、手ごたえがあった。少しずつ掘り進むと、石器が顔をのぞかせた。こうして先の驚くべき石器は発見された。45センチ×25センチ、深さ7センチの楕円計の穴に、5点の大型石器がT字形に並び、その周囲を10点の小型石器が放射状に取り囲むように埋められていた。

 付近の9メートルほどのところには、前述のものの含めてこうした穴が合計5ヶ所、弧状に点在して見つかっている。それぞれ直径20センチ前後の穴に,大型と小型の石器がセットで埋められていた。その石器は、東西方向とそれに直交する南北方向というように、どれも同じむきになっていて、各々7、6、3、3点ずつ納められていた。しかも驚いたことに、赤や緑色のメノウや薄茶色の流紋岩で作った色とりどりの石器が,配色を考慮したように美しく並べてある。

 使い終わった石器に感謝の気持ちを込め、美しく並べて祀(まつ)り、祈ったのか、あるいは次にここを訪れるときのために隠匿したのであろう。つまり、祭祀の跡なのか、「生活の知恵」なのか、それとも両方かねていたのか、解釈の分かれるところである。

 方向や並べ方に規則性をもたせ、配色まで考えて節季を埋めることなど、これまでの「原人」のイメージからは想像もつかないことだった。

 「原人」は、人間とは思えない,サルのような姿や顔をしていると思われていた。彼らは、放浪しながら手当たりしだいに食べられるものは何でも広い、原始的な石器で草の根や野生のイモ類を掘り起こしたり、死肉を刻んで食べる(今だって肉屋の肉は死肉なんだけどなあ…)などして、ようやく糊口をしのいでいたような印象が持たれていた。

 とにかく上高森遺跡での発見は、世界中を捜しても類例のないビッグニュースだった。

 (中略)これらは…民間研究団体「東北旧石器文化研究所」が中心になって,ほとんどの調査研究を進めている。とくに石器の発見は冒頭に紹介した、当時会社員であった藤村新一氏の独壇場で、みんなで石器佐賀市に出かけても第一発見者はほとんどかれであった。

 (中略)私たちが発掘調査区を設定して掘り始め、地質学者の所見も踏まえて地層の古さのみとおしがたち,ようやく目当ての石器が出土しそうな層位に到達しても、なかなか石器が発見されない。疲労が溜まったころ、待ちに待った休日を迎えた彼が、やおら現れて黙々と掘り始める。すると発見現場に緊張が走り、やがて発見の勝ち鬨が上がってあたりが途端に活気付く。云々 

 ほとんど妄想、夢想の世界みたい。これが学者の推理力だったんだ。
 この本どうしようかなあ(-_-;) 古本屋も買い上げてくれないんじゃない?。

 


天気晴れ 
昨日の出来事◆夜は四国朝鮮初中級学校の先生方のコンパに合流。帰宅1時半。
今日の出来事◆「ワンコリア こども美術展」開会式。司会。いよいよ始まった。