2000年9月2日 土曜日

『戦争と罪責』 その2


   なぜ軍隊に入れられると人間ではいられなくなるのか。軍隊における人間性喪失は本当に避けられないのか。
 この問題は軍隊だけの問題ではない。今日の自衛隊や警察においても、企業においても、役所においても、そして学校においても、常に現実の問題として問われることろである。

 つい先日の8月27日、埼玉の警察が泥酔者を放置したため死なせてしまい、それを隠蔽するために『発見時死亡』という嘘の報告書を作った事件があった。あのとき部下の何人かは、嘘を書くのはまずいんじゃないですか、とたしなめたそうだ。しかし、上司が、これでいい、と言い張ったためにそれに従ったのだと言う。

 なぜ従ったのかというと、ここからは憶測だが、上司の機嫌を損ねてはつまらないと思ったからと考えてまず間違いなかろう。上司の機嫌を損ねては出世にかかわるのである。


 軍隊の中で、上官から中国人相手の試し斬りの決行を命令されその命令に従ってしまう心機には、軍隊に入った以上は上官に認められ上等兵にならなくては格好がつかない、とか、部下の兵から、大学出の格好ばかりの下士官と馬鹿にされたくない、といった気持ちがあったという。

 ちょっと場違いの例だが「釣り馬鹿日記」の「ハマサキさん」は決して非人間的な企業活動をしない。それは、かれが出世に興味がないからである。上司によく思われたいという欲望を持っていないからである。

 ある中隊で例のごとく中国人を連行してきて初年兵に度胸試しの試し斬りをさせた。そのときの初年兵の中に僧侶がいてこの命令を拒否した。「仏教徒としてできません」と拒否したそうだ。

 こういう場合、軍隊はこの僧侶に対して処罰はしないものだそうだ。そのかわりに「あいつはだめだ」と判断して進級させない。つまり、二等兵でありつづける決意とあらゆる嫌がらせやいじめを忍ぶ決心があれば、少なくとも「捕虜の試し斬り」といった類の非人間的な犯罪・戦争犯罪を犯さずにすむわけである。


『戦争と罪責』(野田正彰著)のなかに登場する元・熊本歩兵第13連隊第十中隊長富永正三さんは戦後戦犯として捕らえられソ連軍から中国軍に引き渡され5年間の自照の日々を過ごす。
 最初は「命令に従っただけだ」としか考えられなかった富永さんがついに行き着いた結論はこうだった。
 

命令者と実行者の責任は別であり、実行者には実行者としての責任がある。実行者としての責任をとることによって、命令者の責任を問わなければならない。

 

 著者の野田さんは富永さんの自照の軌跡を「させられた人間ではなく、意志して行為した人間とし自覚することによって個人になろうとしたのであった」と書いている。 個人になることによってしか罪責をあがなうことはできないのであった。

 兵士である前に、警察官である前に、教師である前に、……まず個人でなければならないもののようだ。


天気曇り 
昨日の出来事◆三宅島の語源は御焼島だとか。予知連、火砕流の恐れを否定できず、東京都は全島民離島避難に踏み切る。「三軍」合同訓練は予定通り明日決行。
今日の出来事◆朝の散歩30分。

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