1894年2月 全琫準に指導された東学農民軍古阜で蜂起
  日清両国の朝鮮介入・侵略
1894年6月 全州和約・全州城撤退
   
1894年7月 日清戦争開戦
   
1894年10月 東学農民軍第二次蜂起
1894年10月25日 南部兵站監部発、「午後九時四十分、川上兵站総監へ左の電報を発す 井上公使、唯今来着せり、各地の東学党、一刀両断の処置、頗る同意、派遣二中隊は都合次第早きを乞ふ」
1894年10月26日 京釜兵站線のほぼ中間地点、安保兵站支部が東学農民軍2000名の襲撃を受け、ソウル側に繋がる電線が切断され、仁川との連絡が途絶した。
   
1894年10月27日 広島大本営の川上操六兵站総監(日清戦争における軍部の実質的な最高指導者)発の電報に「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後悉く殺戮すべし
1894年10月28日 後備歩兵独立第十九大隊の三中隊派遣が南部兵站監に知らされる。「午后九時廿五分、京城井上公使より電報あり。(後備歩兵独立第十九大隊の)三中隊は来る三十日。出帆の船にて京城に派遣し、猶又参中隊を便船次第派遣の筈なりと、(伊藤博文)首相ならびに参謀長より電報ありたり」
1894年11月2・3・4日 弾圧軍の中心となる大本営直属後備歩兵独立第十九大隊が相次いで広島を出港、仁川へ移送される。
  <当時の後備兵は、現役三年、予備四年を経た者で、後備役は五年。満28歳から32歳までの兵士>
  <兵站守備は後備兵の任務であった 若年の現役兵は前線に出た>
1894年11月6日 同大隊第1中隊が仁川到着
  <日本軍仁川司令部の陣中日記「本日・・・東学党討滅隊なる後備歩兵独立第十九大隊本部・第一、第二中隊来着す」。後備歩兵独立第十九大隊は明確に「東学討滅隊」「東学討伐隊」と認識されていた。>
1894年11月12日 伊藤佑義仁川兵站司令官が後備歩兵独立第十九大隊に対して全七か条の訓令を与えた。第一条は忠清道、全羅道の東学農民運動の根拠の探索と東学徒の殺害、第二条は進軍する沿道の東学徒の撃破、其の禍根の剿絶。東学徒はことごとく死罪に処す。首領級は捕縛し京城の日本大使館へ送致せよ。
1894年11月12日 後備歩兵独立第十九大隊、竜山を発って東学農民軍主力の討伐に向かう。第一中隊、東路進軍。第二中隊、西路進軍。第三中隊、中路進軍。
1894年11月17.18.19日 後備歩兵独立第十九大隊第二中隊天安に滞陣
1894年11月29,30日 第二中隊長城に滞陣
  <日本軍(2000名)と日本軍傘下の朝鮮軍(2800名)が農民軍を弾圧 農民軍死者5万人か>
  <日清戦争当時の後備歩兵隊の一中隊は総員221名。独立第十九大隊は総員663名で弾圧日本軍の三分の一弱>
  <弾圧作戦の援軍 釜山・後備歩兵第一〇連隊第四中隊、軍艦筑波と燥江の陸戦隊など>
1895年1月8日 後備歩兵独立第十九大隊、及び後備歩兵第10連隊第四中隊は東学農民軍と長興、康津の戦いを展開し、東学農民軍の「屍の山」を為した。この後農民軍は逃走態勢に入る。
1895年1月17日 農民軍指導者、全琫準、金開南らを逮捕
1895年1月21日 大本営直属後備歩兵独立第十九大隊第1中隊の一支隊は珍島まで殲滅作戦を及ぼした。珍島城内里など珍島各地で捜索と処刑を行い、25日に珍島対岸の港右水営に帰還。
1895年2月 農民軍殲滅作戦を完了
1895年12月21日 後備歩兵独立第十九大隊、松山で解散