老馬新聞

2008年02月26日09:40
今朝の『ちりとてちん』、B子がA子の母を見舞う。B子は思いがけない話を聞く。

小学校三年生のころ、B子が転校して同姓同名のA子と同じクラスになったのだが、同姓同名の混乱を避けるために付けられた名前が「A子」、「B子」だった。その後B子はいつも「AのしたのB」の立場におかれた。「春の陽だまり」のようなA子、「冬の水溜り」のようなB子、これがB子の「自画像」だった。

ところが、A子の母から聞いたA子の「B子像」は全く違っていた。A子にとっては、自分らしさを求めてまっすぐ進んでゆくB子こそが「春の陽だまり」であり、自分の理想であったのだという。B子はショックを受ける。自画像とは全く異なる「自分」が生きていたのだ。

ショウペンハウエルは「処世哲学」と云う文章の中で、いわゆる「自分」には三つの種類があることを説いている。

その三つの「自分」とは次の通り(新釈漢文大系「老子・荘子上」32ページより引用)。

(1)「実我」:最も広い意味における人格、その中には、知性、特性、健康、体力、美貌などが含まれる。
(2)「物我」:あらゆる種類の持ち物・財産
(3)「社会我」:他人に思われ見られている我。対人我。他人の頭の中にある我。毀誉や社会的地位など。

ショウペンハウエルは「もっとも大切な部分は実我がであり、最とも頼むにたらぬ部分が社会我である」とといているのだそうだが、まもなどにはこの社会我に興味が惹かれる。

他人の頭の中にあるまもは、まもが描いているまも像とは相当の隔たりがあると思う。多くの人に迷惑をかけながら生きてきた人生であったからだ。

B子とともにそんなことも振り返ってみたい。